彼が唱えた理論、「ジャーヒリーヤ論」とは、当時の専制者、ナセル大統領の支配するエジプトは、「イスラムの家」ではなく「戦争の家」、イスラム社会ではなく、アラビア社会である、とし、預言者ムハンマドの憎んだ《ジャーヒリーヤ》そのものであると断罪し、全イスラム教徒はこれを打倒するべくジハードに立ち上がるのが義務であるとする危険な考え方であった。
この思想はエジプト全土に衝撃をもたらした。エジプトがイスラム社会なのか、アラビア社会なのか判定することを迫られたからだ。もし、クトゥブのいうとおり、アラビア社会であるなら、国民はジハードのために決起しなければならなくなる。
ナセルはクトゥブの思想を危険視した。実際、ムスリム同胞団はナセル暗殺を幾度も試みたため大弾圧を受けた。ナセル政権はクトゥブを投獄した末処刑した。クトゥブは「殉教者」として神格化された。
《ジハード》の再定義
クトゥブはジハードに対して再定義を呼びかけた。ジハードはもともと「精神鍛錬」と「敵に対する攻撃」という2つの意味があるが、普通前者を指すものであった。しかし、クトゥプは後者を重視し、エジプト社会打倒のためのジハードを行うべきだとしたのである。現在存在する過激原理主義組織は思想の原点をクトゥプに求め、テロ攻撃を繰り返しているのである。
カリフ制度とソ連軍のアフガニスタン侵攻
カリフ制度とは預言者ムハンマドの支配するイスラム社会において、ムハンマドの後継者がイスラム社会を統治するべきであるという思想である。預言者ムハンマドには男の子供がいなかったため、妻の父であったアブー・バクルがカリフとなった。しかし、もう一人のカリフ候補が存在し、それは預言者の娘婿であったアリーである。彼は敬虔で最も早くイスラム教徒になったひとりであったため、彼を担ぎ上げる人々も少なくなかった。このようにイスラム勢力は二分され、後にスンニ派(バクルを支持する一派)、シーア派(アリーを支持する一派)と呼ばれるようになった。
ソ連に勝ったという自負
1979年ソ連軍がアフガニスタンを侵攻、共産主義傀儡国家を樹立した。これに対し、イスラム社会は憤怒し、多数の義勇兵がアフガニスタンに駆けつけ戦った。この中にはイスラム過激原理主義組織も多数存在し、オサマ・ビン・ラーディンもいた。
10年の長きにわたるゲリラ戦の結果、侵攻ソ連軍は撤退し、その直後にソ連邦は崩壊してしまった。その後、完全にイスラム化されたタリバンが政権を握り、タリバン指導者ムハンマド・オマルは自らをカリフとして君臨した。過激原理主義組織はアフガニスタンを純粋な神の国としてここを拠点とし、厳格なイスラム化を人民に強要した。彼らは超大国であったソ連に勝利し、崩壊させたとまで思っており、アメリカにだって勝てる自信を持っているのである。
過激派の国際化
アフガニスタンに義勇兵として参加した過激組織は、ソ連に勝利した後いくつかの分派に別れた。その中で、更なる闘争を求めた分派があり、ビン・ラーデインはその代表的人物である。
彼らはボスニア紛争、コソヴォ紛争、スーダン内戦、パキスタンやエジプトなどでも、神の国を増やすための工作活動・破壊活動を行った。
原理主義勢力と各国の治安部隊はことあるごとに衝突、全世界で多数の死傷者が頻発した。エジプトのナセルの後継者であったサダト大統領もエジプトの原理主義勢力によって暗殺、1997年にはルクソール事件として有名なエジプトの観光地ルクソールで原理主義組織が子供を含む観光客58名を残虐の限りを尽くして虐殺。日本人も新婚カップルを含む数名が犠牲になった。
「原理主義のトロツキー」、ビン・ラーディン
ビンラーディンはイスラム過激派におけるトロツキーそのものである。彼はイスラム社会樹立を母国サウジアラビアで唱えたことは一度もない。彼の目線は常にグローバルなものだった。
彼はサウジアラビアの資本家の17番目の子供として生を受け、父が死ぬと同時に数億ドルとも言われる遺産を受け継いだ。こうしてビンラーディンは数々の事業を起こし、その利益でイスラム過激派の援助をしている。1979年にはアフガニスタンで侵攻ソ連軍と自らが銃を持って戦っている。彼はイスラム革命全世界波及を目指す国際派の急先鋒なのである。
彼はアフガニスタンに潜伏し、テロを資金的、物質的に援助し続けた。アメリカはナイロビとダルエスサラームの米大使館が同時に爆破され数百名が死傷する事件が起こると、この首謀者をビンラーディンと断定、アフガニスタンの原理主義軍事教練キャンプに79発の巡航ミサイルを撃ち込み暗殺を企てたが失敗した。アメリカ連邦捜査局(FBI)はビンラーディンの首に懸賞金500万ドルを懸けた。
ビンラーディンは自らの組織である「カイーダ(基地)」を編成し、全てのイスラム教徒を統一し、カリフに従う国家を樹立することを目指している。