ビンラーディンはアフガニスタンでソ連に勝利すると一時サウジアラビアに帰国する。するとサウジアラビア当局はビンラーディンの国外出国を禁じた。南イエメンの社会主義政権に対するジハードを企てたからとされる。彼はサウジで説教活動などで新たな場を見出した。ここで彼は、イラクの独裁者サダム・フセインがクウェートに侵攻すると警鐘を鳴らし続けてきた。サウジの王族にも同様の手紙を書いて警戒を呼びかけた。イラク軍が戦車数百輌を率いてクウェートに侵攻したのはその数週間後だったとされる。
ビンラーディンはイラク軍の侵略に憤慨した。世俗主義のサダムフセインはイスラム過激派からは不信人者として憎まれていた。彼も過激派にとってはジャーヒリーヤの支配者だったのである。
ビンラーディンはサウジアラビアのファハド国王にイラク軍撃退のための義勇兵を動員する用意があると申し出た。しかしサウジアラビアはビンラーディンよりもアメリカを中心とした多国籍軍を受け入れた。自分たちよりもキリスト教、ユダヤ教中心の軍隊をイスラムの聖地であるアラビア半島に受け入れたのである。彼は後に「自分の人生で最も衝撃的な瞬間だった」と述べ、サウジアラビア政府も彼にとって敵になった。
彼は1992年にひそかにサウジアラビアを出国し、スーダンの原理主義組織を支援した。1996年にはサウジアラビア当局やアメリカの手の届かない聖地アフガニスタンに戻った。そしてそこからサウジアラビアに駐留していた米軍に対し、あらゆる場面で殺害するよう呼びかけた。これは後に「ジハード宣言」と呼ばれた。
こうして過激組織が集結して一つの巨大な集団「世界イスラム戦線」を組織、はじめて国境をまたにかけた強大な国際組織が生まれた。彼らは湾岸戦争後もサウジに駐留する5000名の米軍を指して無辜のイスラム教徒が危険にさらされていると訴え、これを「あらゆる場所であらゆる時に殺害して財産を奪うことは全てのムスリムの個人的義務だ」と呼びかけた。もはやテロの標的は米軍兵士だけではなく、あらゆる民間人も含むアメリカ人となった。
アメリカの対テロ戦争によってタリバンが崩壊すると、ビンラーディンの足取りも不明となった。たびたび死亡説も流れたが、確証はなかった。2010年にビンラーディンがパキスタンの家屋で「快適に」暮らしているとの情報が流れた。2011年にはこの情報に基づき米軍による暗殺作戦が決行され、ビンラーディンは殺害されたと世界中が報じた。
アルカイダ内の急進派ザルカウィとは何者か?
アル・ザルカウィはアメリカに祭り上げられた「スーパーテロリスト」である。アメリカはビンラーディンの所在を見失ったので、新たな目に見える敵を必要としたのだ。
しかし、ザルカウィ自身は、アルカイダの中では異端派であった。もともとヨルダンの貧しい出自のこの男は、ヨルダン政府に強い敵意を持っていた。ビンラーディンが唱えるように、アメリカなどの遠い敵にはあまり興味がなかった。ザルカウィはもっと身近な敵と戦うために、テロを繰り返していた。
ザルカウィが有名になったのは、単に彼の残虐性である。カメラの前で人質に反省の弁を述べさせて身代金を要求し、聞き入れられない場合は生きたまま首を切り落とし、その映像を世界中に配信したのだ。
アメリカ政府のお墨付きと首切り動画で一躍有名となったザルカウィに、世界中の反米国家から資金が流れ込み始めた。ザルカウィは当初、イスラム国(IS)の母体となる組織「イラクのイスラム国(ISI)」を率いていたが、ある時点でビンラーディンに従う形で「イラクのアルカイダ」と名を変えて、アルカイダ系の組織の傘下に入った。
ザルカウィの野望は、混乱の最中にあるイラク領内に自らの国家を設立することであった。アルカイダはほとんど領土的野心は持っていなかったが、彼の目線は変わることなく、もっと身近なものであった。混乱を更に拡大させるため、シーア派にたびたび自爆攻撃をかけ、宗派間対立を煽った。