《第三帝国》ナチスと麻薬《ドラッグ》

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 14

イントロダクション

ドイツ第三帝国と麻薬の黒い関係については、これまでに幾度となく論じられてきたが、その全体像について包括的に論じた書はなかった。あったとしても、戦後70年以上をゆうに過ぎたいま、これらを鵜呑みにするのは憚られる。

そんな中、2015年にドイツで出版されたノーマン・オーラン著、「ヒトラーとドラッグ 〜第三帝国における薬物依存〜」がこのほどわが国でも翻訳された。これは第三帝国の隅々にまで麻薬が浸透していたことを明らかにし、世界で大反響を呼んだ。

ドイツ第三帝国はいまだに各国で数多の人間を虜にする素材だ。

緒戦における革命的戦術、電撃戦、ヒトラーのカリスマ、総統国家における連帯、忠誠、統率、末期の狂信、スタイリッシュな制服、謎に満ちた親衛隊組織、数々の発明……はたまた大量虐殺という暗い光さえも。

上記の書は第三帝国の隅々にまで麻薬が浸透し、ヒトラー自身でさえ重度の麻薬中毒者であったことを数々の資料を基に証明している。なぜ電撃戦はああまで人間離れした偉業となり得たのか、ヒトラーが戦況の悪化に伴い正気を失っていったのは単なるストレスの産物なのだろうか、悪化する戦況を薬物でどうにかしようとしたナチ医学会の狂気、数多の人体実験が多くの犠牲を出しながらもハードドラッグを産み出してきた経緯を雄弁に語っている。

ここではそれらを簡潔にまとめたい。


目次
イントロダクション
薬物大国ドイツ
ペルビチンの登場
電撃戦と麻薬
独ソ戦と麻薬
大量銃殺とアルコール
クスリを抱いて沈め 大戦末期と麻薬
その後〜CIAの「MKウルトラ」計画へ〜
おわりに

薬物大国ドイツ

19世紀のドイツでは、既に罌粟(けし)から痛みを取り去る成分が発見されており、その濃縮液たる阿片(アヘン)の主要アルカロイドであるモルヒネの単離が既に成し遂げられていた。これは文字通り痛みを快楽に変える物質である。人類の不快な同伴者たる「痛み」は既に克服された過去となっていた。

1850年には注射器が開発され、モルヒネの全世界への進出を止める者はいない。1860年代のアメリカ南北戦争、1870年代の普仏戦争では既に痛みを消し去るドラッグが大量に使用されていた。アメリカでは間も無く常習的なモルヒネ注射が流行する。

重傷者の苦痛を瞬時に取り除くこの薬物によって、人類はさらに規模の大きな戦争を遂行できるようになったのである。

その後も薬物の大躍進は続き、ナチスが政権につく前からメルク社、ベーリンガー社、クノル社といった製薬会社がコカインの世界市場の80パーセントを独占し、モルヒネとヘロインの製造販売についても世界のトップを走っていたのである。

それら依存性の高い薬物が当時は処方箋なしで入手でき、社会のあらゆる層に浸透していた。いわばワイマール期ドイツの爛熟文化は薬物蔓延と密接に結びついていたのだ。

ペルビチンの登場

ナチスは最初麻薬を厳しく取り締まった。薬物による陶酔は恥ずべき行為であり、民族的な裏切り行為として規定し、激しく弾圧したのだ。しかし一方では資源の少ないドイツでは人工物を作り出す必要があった。薬物も例外ではない。モルヒネとコカインの消費量はナチの反麻薬キャンペーンで激減したものの、ドイツは薬物製造に関して相変わらず世界トップをひた走っていたのだ。

むしろ覚醒剤の開発自体は促進された。
テムラー社の化学主任フリッツ・ハウシルト博士はベルリンオリンピックで当時は合法のドーピング剤アンフェタミンが活躍した話を知るにつけ、日本の研究者の論文に注目した。日本人は1887年に極めて興奮性の高いNーメチルアンフェタミンという分子を初めて合成し、1919年にはその純粋結晶化に成功していたのだ。

ハウシルトはこの製剤化に取り組み、1937年秋にメタンフェタミンの新たな合成法を見つけ出した。その同じ年にテムラー社はドイツ初の自国製メタンフェタミンをベルリン特許庁に申請した。商標名は「ペルビチン」といった。

ペルビチンは分子構造の点ではアドレナリンに似ていて、分子配列もほぼ同一であるため問題なく血液脳関門を通過する。ただし、メタンフェタミンはアドレナリンとは異なり急激な血圧上昇をもたらさず、作用はより穏やかで長時間にわたる。

服用者は突然頭が冴え渡り、活力がみなぎり、五感が極度に研ぎ澄まされたように感じる。生気に溢れ、髪の毛の先から指先までエネルギーに満ちていると思い込むのだ。思考プロセスが迅速化し、多幸感に包まれ、自分が敏捷で溌剌とした人格になったと錯覚する。

効果は長ければ12時間に及び、服用量が多すぎると神経細胞が負担を受け最悪のケースでは損傷してしまう。ニューロンが熱を持ち、脳内では雑音がひっきりなしに響き、あたかも壊れたラジオのような様相を呈するに至る。神経細胞は活動をやめて不可逆的に死滅する。記憶と感情、発話に障害が生じ、注意と集中の欠如が生じ、全面的な脳萎縮が起きることもある。

薬物の効果が切れると、ホルモン備蓄が満杯になるまで数週間を待たねばならず、その間服用者は虚脱感や抑鬱、知覚障害に悩まされる。テムラー社はこれら副作用に気づいていながら見て見ぬふりをし、大々的に売り出したのである。

このドラッグは「食卓の切り分けられたパンや一杯のコーヒーのようにありふれたもの」となった。
ある心理学者はこう表現している。

ペルビチンはセンセーションとなった。それはあっという間にあらゆる社会集団に浸透した。学習者は試験のストレスに耐えられるようにこの薬剤を服用し、電話交換手や看護婦たちは夜勤をきちんとこなすために、そしてきつい肉体労働者や精神労働に携わる者は最高のパフォーマンスを得るべく、ペルビチンに手を伸ばした。

かつて「ドイツよ、目覚めよ!」とナチスは要求した。まさにメタンフェタミンによってこの国はそうした覚醒状態に保たれることになる。

電撃戦と麻薬

ドイツ国防軍が軍人魂を持ったプロフェッショナル集団とのイメージは、電撃戦における人間離れした華々しい戦果が背景にあるといっていい。ポーランドやフランスをたった1ヶ月で占領し、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、ユーゴスラヴィア、ギリシャをものともせず征服し、ソ連でさえ当初は圧倒していたのだ。

その電撃戦の戦果が麻薬の賜物だとしたらどうだろうか。耳を塞ぎたくなる者もいるかもしれない。しかし、多くの資料がこれらを雄弁に証明している。

1939年9月のポーランド侵攻では、各部隊でペルビチンが不眠不休の進撃のために用いられた。多くの将校がそれを証言している。
例えばヴィスワ河を渡ってブレスト・リトフスクに向かって進んだ第Ⅲ装甲車部隊は次のように報告している。

しばしば多幸感が湧き上がり注意力が向上し、軍の戦力が増大したことが確認された。どの作業も捗り、すばらしい覚醒効果と高揚感が得られた。一日中働きづめであったが辛さは吹き飛び、その後ではいつもの気分に戻った

誰もが元気で陽気で、素晴らしい規律のもとに一体となっていた。軽い多幸感と意欲の増大。精神の昂りと激しい興奮。それに加えて事故などは皆無だった。効き目は長続きし、4錠目を飲むと複視が起きたり現実にはない色が見えたりした。

空腹感が消え、とりわけ有効だったのは、溌剌とした労働意欲が掻き立てられた点である。この効果は明白であり、決して思い込みなどではあり得ない。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする