《第三帝国》ナチスと麻薬《ドラッグ》

イントロダクション

ドイツ第三帝国と麻薬の黒い関係については、これまでに幾度となく論じられてきたが、その全体像について包括的に論じた書はなかった。あったとしても、戦後70年以上をゆうに過ぎたいま、これらを鵜呑みにするのは憚られる。

そんな中、2015年にドイツで出版されたノーマン・オーラン著、「ヒトラーとドラッグ 〜第三帝国における薬物依存〜」がこのほどわが国でも翻訳された。これは第三帝国の隅々にまで麻薬が浸透していたことを明らかにし、世界で大反響を呼んだ。

ドイツ第三帝国はいまだに各国で数多の人間を虜にする素材だ。

緒戦における革命的戦術、電撃戦、ヒトラーのカリスマ、総統国家における連帯、忠誠、統率、末期の狂信、スタイリッシュな制服、謎に満ちた親衛隊組織、数々の発明……はたまた大量虐殺という暗い光さえも。

上記の書は第三帝国の隅々にまで麻薬が浸透し、ヒトラー自身でさえ重度の麻薬中毒者であったことを数々の資料を基に証明している。なぜ電撃戦はああまで人間離れした偉業となり得たのか、ヒトラーが戦況の悪化に伴い正気を失っていったのは単なるストレスの産物なのだろうか、悪化する戦況を薬物でどうにかしようとしたナチ医学会の狂気、数多の人体実験が多くの犠牲を出しながらもハードドラッグを産み出してきた経緯を雄弁に語っている。

ここではそれらを簡潔にまとめたい。

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目次
イントロダクション
薬物大国ドイツ
ペルビチンの登場
電撃戦と麻薬
独ソ戦と麻薬
大量銃殺とアルコール
クスリを抱いて沈め 大戦末期と麻薬
その後〜CIAの「MKウルトラ」計画へ〜
おわりに

薬物大国ドイツ

19世紀のドイツでは、既に罌粟(けし)から痛みを取り去る成分が発見されており、その濃縮液たる阿片(アヘン)の主要アルカロイドであるモルヒネの単離が既に成し遂げられていた。これは文字通り痛みを快楽に変える物質である。人類の不快な同伴者たる「痛み」は既に克服された過去となっていた。

1850年には注射器が開発され、モルヒネの全世界への進出を止める者はいない。1860年代のアメリカ南北戦争、1870年代の普仏戦争では既に痛みを消し去るドラッグが大量に使用されていた。アメリカでは間も無く常習的なモルヒネ注射が流行する。

重傷者の苦痛を瞬時に取り除くこの薬物によって、人類はさらに規模の大きな戦争を遂行できるようになったのである。

その後も薬物の大躍進は続き、ナチスが政権につく前からメルク社、ベーリンガー社、クノル社といった製薬会社がコカインの世界市場の80パーセントを独占し、モルヒネとヘロインの製造販売についても世界のトップを走っていたのである。

それら依存性の高い薬物が当時は処方箋なしで入手でき、社会のあらゆる層に浸透していた。いわばワイマール期ドイツの爛熟文化は薬物蔓延と密接に結びついていたのだ。

ペルビチンの登場

ナチスは最初麻薬を厳しく取り締まった。薬物による陶酔は恥ずべき行為であり、民族的な裏切り行為として規定し、激しく弾圧したのだ。しかし一方では資源の少ないドイツでは人工物を作り出す必要があった。薬物も例外ではない。モルヒネとコカインの消費量はナチの反麻薬キャンペーンで激減したものの、ドイツは薬物製造に関して相変わらず世界トップをひた走っていたのだ。

むしろ覚醒剤の開発自体は促進された。
テムラー社の化学主任フリッツ・ハウシルト博士はベルリンオリンピックで当時は合法のドーピング剤アンフェタミンが活躍した話を知るにつけ、日本の研究者の論文に注目した。日本人は1887年に極めて興奮性の高いNーメチルアンフェタミンという分子を初めて合成し、1919年にはその純粋結晶化に成功していたのだ。

ハウシルトはこの製剤化に取り組み、1937年秋にメタンフェタミンの新たな合成法を見つけ出した。その同じ年にテムラー社はドイツ初の自国製メタンフェタミンをベルリン特許庁に申請した。商標名は「ペルビチン」といった。

ペルビチンは分子構造の点ではアドレナリンに似ていて、分子配列もほぼ同一であるため問題なく血液脳関門を通過する。ただし、メタンフェタミンはアドレナリンとは異なり急激な血圧上昇をもたらさず、作用はより穏やかで長時間にわたる。

服用者は突然頭が冴え渡り、活力がみなぎり、五感が極度に研ぎ澄まされたように感じる。生気に溢れ、髪の毛の先から指先までエネルギーに満ちていると思い込むのだ。思考プロセスが迅速化し、多幸感に包まれ、自分が敏捷で溌剌とした人格になったと錯覚する。

効果は長ければ12時間に及び、服用量が多すぎると神経細胞が負担を受け最悪のケースでは損傷してしまう。ニューロンが熱を持ち、脳内では雑音がひっきりなしに響き、あたかも壊れたラジオのような様相を呈するに至る。神経細胞は活動をやめて不可逆的に死滅する。記憶と感情、発話に障害が生じ、注意と集中の欠如が生じ、全面的な脳萎縮が起きることもある。

薬物の効果が切れると、ホルモン備蓄が満杯になるまで数週間を待たねばならず、その間服用者は虚脱感や抑鬱、知覚障害に悩まされる。テムラー社はこれら副作用に気づいていながら見て見ぬふりをし、大々的に売り出したのである。

このドラッグは「食卓の切り分けられたパンや一杯のコーヒーのようにありふれたもの」となった。
ある心理学者はこう表現している。

ペルビチンはセンセーションとなった。それはあっという間にあらゆる社会集団に浸透した。学習者は試験のストレスに耐えられるようにこの薬剤を服用し、電話交換手や看護婦たちは夜勤をきちんとこなすために、そしてきつい肉体労働者や精神労働に携わる者は最高のパフォーマンスを得るべく、ペルビチンに手を伸ばした。

かつて「ドイツよ、目覚めよ!」とナチスは要求した。まさにメタンフェタミンによってこの国はそうした覚醒状態に保たれることになる。

電撃戦と麻薬

ドイツ国防軍が軍人魂を持ったプロフェッショナル集団とのイメージは、電撃戦における人間離れした華々しい戦果が背景にあるといっていい。ポーランドやフランスをたった1ヶ月で占領し、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、ユーゴスラヴィア、ギリシャをものともせず征服し、ソ連でさえ当初は圧倒していたのだ。

その電撃戦の戦果が麻薬の賜物だとしたらどうだろうか。耳を塞ぎたくなる者もいるかもしれない。しかし、多くの資料がこれらを雄弁に証明している。

1939年9月のポーランド侵攻では、各部隊でペルビチンが不眠不休の進撃のために用いられた。多くの将校がそれを証言している。
例えばヴィスワ河を渡ってブレスト・リトフスクに向かって進んだ第Ⅲ装甲車部隊は次のように報告している。

しばしば多幸感が湧き上がり注意力が向上し、軍の戦力が増大したことが確認された。どの作業も捗り、すばらしい覚醒効果と高揚感が得られた。一日中働きづめであったが辛さは吹き飛び、その後ではいつもの気分に戻った

誰もが元気で陽気で、素晴らしい規律のもとに一体となっていた。軽い多幸感と意欲の増大。精神の昂りと激しい興奮。それに加えて事故などは皆無だった。効き目は長続きし、4錠目を飲むと複視が起きたり現実にはない色が見えたりした。

空腹感が消え、とりわけ有効だったのは、溌剌とした労働意欲が掻き立てられた点である。この効果は明白であり、決して思い込みなどではあり得ない。

第Ⅸ軍団の軍医は興奮を隠しきれずに次のように報告している。

私はその効果を確信した。兵士が持てる力をすべて出しきらねばならぬような難局で、ペルビチンを支給された部隊は支給されなかった部隊を遥かに上回る戦果を挙げたのだ。

この軍医はペルビチンが軍の医療備品の中に常備されていたことも付記している。

別の軍医は次のように書いている。

とりわけオートバイ部隊には、猛暑ともうもうたる土埃、劣悪な路面によって極度の負担がのしかかった。しかも先へ先へと延伸される行軍は、早朝から夜遅くまで続き、シュレージエン地方からボヘミア、スロヴァキアを経て、ポーランドのレンベルク近郊(ガリツィア地方の都市)にまで及んだ。例の錠剤は服用の目的を告げずに配給された。しかしそのあらかたな効験を通じて、まもなく何の薬であるかは隊員たちの間で知れ渡った。

ドイツ国防軍は薬物に自らの命運を賭けた世界最初の軍隊となった。

1940年5月10日、西方電撃戦の前夜、侵攻部隊は一斉にペルビチンを服用した。
テムラー社の製造部門では1日に83万3000錠のペルビチンが生産可能となっていた。ドイツ国防軍はこの日のために計3500万回もの服用量の薬剤を注文していた。

効果は20分で現れた。脳の神経細胞が盛んに神経伝達物質を放出し、ドーパミンとノルアドレナリンが一挙に感覚知覚を研ぎ澄ませ、生体は完全な臨戦体制となった。

3日後、部隊長は自分達がフランス国境に到達したことを報告した。多くの者は行軍が始まってから一睡もしていなかった。そしてなおも急がねばならない。

我々はある種の高揚感に満たされ、尋常ならざる状態に陥った。

参戦した者はそう報告した。「埃まみれになり、疲弊しきって車輌に座っていたが、それでいて誰もが躁状態だった

ドイツ軍はマース河を渡河し、フランス国境の町を占領した。フランス軍はドイツ軍の不眠不休の攻撃に部隊を集結させることができず、ついに降伏に至る。

ペーター・シュタインカンプ博士(医学史家)はのちにこう述べた。
電撃戦については、メタンフェタミンによってもたらされたとまでは言えないが、明らかにメタンフェタミンによって支えられたのである

独ソ戦と麻薬

41年の6月、帝国保健省はペルビチンを帝国阿片法による危険薬物に指定した。各地で薬物の興奮から覚めた後、何が起こるのかが報告されていたからだ。しかし使用量は一向に減らず取り締まりはうわべだけのものとなった。いまやドイツ国内でのペルビチンの民間消費量は月に150万ユニットを超えていた。

国民は長く続く戦争の大きな負担に押し潰されそうになっていた。麻薬だけが直接この苦痛を取り除いてくれたのである。

軍においても同様で、ソ連邦を急襲する6週間前、ドイツ国防運と帝国軍需省はペルビチンを「軍事的に極めて重要」と公式に発表した。

実際、広すぎるロシアで長く続く戦争を勝ち抜くのに麻薬は大した助けにはならなかった。

スターリングラードで戦ったある衛生将校は戦後こう証言した。
当たり前のように配布されていました。私自身はペルビチンをのまなかった。正確に言うと一度だけ試したことはある。自分が兵士に渡す物がどんなものなのか、知るためだった。……一度でわかったよ。あれは効く。容赦ないぐらいに眠気を吹き飛ばす。でも何度も試したいとは思わなかった。依存性があり、副作用を伴うことを私たちは知っていたから。精神疾患、神経過敏、虚脱感だ。それにロシアは完全な消耗戦、陣地戦だった。そこではペルビチンは何の役にも立たなかった。余計に消耗させるだけだ。薬で休みなしに活動したツケはいつか払わねばならなかったから。いくら眠気を抑えても、そこに戦略上のメリットなんてなかったんだよ。

電撃戦が長期戦に向かないといわれる所以は、薬物による陶酔と無関係ではなかったのだ。

41年の末になると、総統大本営でも、もはや勝利は望めまいと考える者が出始めた。ヒトラーは既に自分自身も主治医モレルによって静注される薬物の依存症になっていた。正気を失っていた可能性が高い。モスクワ攻略に失敗したにも関わらず、休養をたっぷり取り眠れる獅子と恐れられていた超大国アメリカに宣戦を布告したのだ。

ホロコーストと薬物

長く続く戦争のストレスによってヒトラーの心身はボロボロだった。狭苦しいブンカーでの隠遁生活は精神を苛んだ。一日中続く作戦会議と、誰も信用せず何にでも口を出す性格が不眠不休の活動を強いた。どんなに疲れていても、即座に元気になる必要があった。いつでも精力的で、疲れ知らずで、強力な指導者を演じる必要があった。これを一挙に解決したのは薬物以外なかった。

主治医のモレルは、大量のビタミン剤に加え、ペルビチン、オイコダール※、コカインを定期的に総統に静脈注射した。ヒトラーは重度のジャンキーとなり、モレルは求められるがままに麻薬を注射した。それどころか、ゲッベルスなどの重臣たちにまでいとも容易く麻薬を注射したのだ。末期の大本営は薬物依存性患者で溢れていた。

※阿片に含まれる物質から合成されたオキシコドンを成分とする鎮痛・鎮咳薬。メルク社から1917年に発売され、1920年代に人気となった薬である。「薬物の女王」と呼ばれた。

これら薬物による陶酔が、ホロコーストの決定と実行にどの程度影響したかは議論がある。ヒトラーのユダヤ人絶滅思想は、「我が闘争」にて既に明らかにされているし、薬物が大量虐殺の犯罪性を免罪するとは言えないであろう。ただし、薬物がヒトラーの思想を確固としたものとして先鋭化させた可能性は指摘されている。薬物は罪悪感を薄れさせ、自分の信念に自信を持たせ、殺戮による精神的疲労を減じさせてくれたからだ。

上記のように、ヒトラーの意思決定にドラッグがどの程度関わったかは大変ナーバスな問題である。対して、現場の将兵はどうだっただろうか。ユダヤ人の大量虐殺に携わったナチス親衛隊(SS)や警察大隊(オルポ)の面々は。彼らに協力したドイツ国防軍の後方保安隊や軍属、野戦憲兵、占領地でリクルートされた大量の傭兵達は。

薬物とは異なるが、アルコールが大量虐殺に大きな役割を果たしたことは知られている。ホロコーストは当初、ガスによる殺戮よりも、銃や人工的に飢餓に追い込むという手法が主な殺し方だった。特に銃殺は兵士達の精神的な負担が大きかった。そこで大量に使用されたのが酒である。酒は罪悪感を忘れさせ、道徳心を麻痺させ、普段ならできないようなことを平気で行わせてしまう。我々はそれをよく知っている。

ドイツ警察やナチス親衛隊がオスト(東部)の占領地で大量にユダヤ人やゲリラを銃殺にした際、必ず大量に振る舞われたのがシュナップスという強い蒸留酒だった。処刑人は警察大隊所属の一般警察官や、ラトヴィア人やウクライナ人の傭兵、党から派遣された保安部(SD)の特務将校達であったが、彼らはいずれも銃殺の際には大量のアルコールを服用した。アルコールを飲まずに処刑人を続けた者は神経を病み、どこかで落伍した。べろんべろんに酔っ払い、足元がふらふらになる程呑んだくれた者ほど、優れた殺しのスペシャリストとなった。

南ポーランドのルブリン管区で≪ラインハルト作戦≫※の実行部隊となった第101警察予備大隊の記録が最も有名である。500人の隊員に対し、総犠牲者数は8万人以上にのぼった。任務の前後に気前よく酒が振る舞われ、酒を飲むほどに警官達は獰猛でサディスティックとなった。任務期間中、日常的に酒を飲み続けた結果、アルコール中毒を罹患した者も数多くいた。

※ナチはポーランドのユダヤ人を皆殺しにする計画を立て、実行に移した。44年にはルブリン管区は≪ユダヤ人のいない世界(ユーデンフライ)≫を達成した。

101警察予備大隊の殺戮の記録は下記の書に多く収められているが、ここではその一例を紹介するにとどめよう。処刑に酒が不可欠だったことを物語る好例といえる。

ルブリン管区北東部に位置するウォマジー村は、付近の村々からユダヤ人がかき集められていた。ウォマジーは鉄道駅から遠く、移送するのも一苦労であった。そのため銃殺されることになったのである。これらかき集め作業は第101警察予備大隊第2中隊の仕事であった。中隊長ハルトヴィッヒ・グナーデ少尉もまた過酷な処刑任務の連続でアルコール中毒になっていた。アルコールは彼の粗暴な一面を大いに引き出した。

1942年8月17日早朝、ウォマジーのユダヤ人地区は解体され、ユダヤ人たちは校庭に集められることになった。集合地点まで移動できない病人・老人・幼児・虚弱者はその場で射殺されねばならなかった。1700人のユダヤ人は2時間ほどで集合し、60~70人の若い一団のユダヤ人が選別され、シャベルを持たされトラックに乗せられ森に連れて行かれた。森の中でユダヤ人たちは巨大な墓穴を掘るために作業させられた。他のユダヤ人はその場で何時間も待たされた。

その間にSS将校に率いられた外国人協力者が村に到着した。彼らの多くはウクライナ人であったらしい。彼らはすぐに飯を食い酒を飲み始めた。グナーデ少尉と保安部将校も同じく急ピッチで酒を飲み始めた。

墓穴を掘る作業が終わりに近づくと、校庭で待たされていたユダヤ人たちも1kmほどある森へ、死の行進が始まった。行進はノロノロしており、動かないもの、途中で倒れたものは容赦なく射殺された。

ユダヤ人の隊列が森に到着すると、彼らは性別に分けられ、三つの集合地のいずれかに送られた。そこで彼らは服を脱ぐように命じられた。衣服や貴重品はその場で奪われた。

グナーデ少尉はその日もどうしようもないぐらい酔っていた。射殺が始まる直前、グナーデはユダヤ人の中からあごひげの豊かな指導者風の年長のユダヤ人を選び出し、墓穴のふちにうつ伏せで寝かせて棒で打ち始めた。・・

射殺の準備が完了すると、ユダヤ人たちは小グループに分けられ、墓穴に向かって走らされた。墓穴は三方を土塁で囲まれ、入口はユダヤ人を追い込むためスロープがつけられていた。対独協力者たちは酔って興奮していたので入り口付近で射殺し始めた。その結果最初に殺されたユダヤ人が積み重なってスロープをさえぎってしまった。そこで幾人かのユダヤ人が墓穴の中に入り、入口の死体を取り除いた。ただちに多数のユダヤ人が墓穴に追い込まれ、対独協力者たちは急造された土塁の上に立ちそこから犠牲者を撃ったのである。

射撃が続けられるにつれ、墓穴は死体でいっぱいになった。後から来るユダヤ人たちは射殺された死体を乗り越えねばならなかった。死体は墓穴を満たしほとんど穴の淵にまで達していた。

グナーデも対独協力者たちもますます酔っ払っていった。グナーデは土塁の上から拳銃で撃っていたが、酔って終始墓穴の中に落ちそうになっていたという。保安部将校は穴の中に入ってそこで射殺していた。彼もまた酔っており土塁の上に立っていることはできなかったからだ。銃殺班が泥酔状態になっていくと落伍者が増えてきた。するとグナーデと保安部将校は周囲のもの全員に聞こえるぐらいの大声でお互いを罵り始めた。
「おまえのクソ警官どもはまったく撃たねえじゃねえか!!」
「いいとも、それならおれの部下も撃ってやろうじゃねえか!」

グナーデによって第2中隊の警官たちにも射殺命令がくだされた。
墓穴の中には地下水が溢れ出し血と混ざって悲惨な光景が繰り広げられていた。折り重なった死体の随所から死にきれないユダヤ人たちの苦痛の呻き声が聞こえていた。

銃殺班は墓穴の対岸から処刑を続行することに決めた。ユダヤ人たちは墓穴のそれぞれの側面に沿って横になるように命じられ、処刑されていった。8~10人の銃殺班は5~6回射撃するとローテーションで次の部隊と交替した。2時間もすると泥酔状態の対独協力者たちが目覚め、ドイツ人警官と交代して射撃を再開した。銃殺は夜7時頃終了し、脇に待機させられていた作業用のユダヤ人が死体で溢れた墓穴に覆いをかけた。その後彼らも射殺された。

また、ホロコーストに関与した重要な部隊であるナチ特殊部隊「ゾンダーコマンド4a」も紹介したい。同部隊はキエフ郊外のバビ・ヤール渓谷にてたった2日で3万人以上の非武装のユダヤ人を銃殺したが、処刑中、兵士たちは好きなだけ酒を飲めたという。その指揮官パウル・ブローベルSS大佐も重度のアルコール中毒で、この虐殺のあとに治療のため一旦は任務を外れ、再び「タイルコマンド1005」という特殊部隊を率いた。(この部隊は各地で銃殺されたユダヤ人の腐った屍を掘り出して特殊な網で焼却し、ホロコーストの証拠を隠滅することが任務であった)

上記のように処刑とアルコールの親和性は疑いようがない。ホロコーストの中でどの程度心理的疲労を打ち消すために覚醒剤が使用されたのかは定かではないが、民間人でさえ日常的に使用し、軍の常備品とまでなっていたペルビチンが使用されなかったとは考えにくい。この分野は後続研究が待たれる。

クスリを抱いて沈め〜大戦末期と麻薬〜

1944年後半ともなると、ヒトラーのソルジャー達はほとんど何一つ戦果をあげられなかった。パリは8月末に連合軍に奪還され、ドイツ国防軍はギリシャから撤退せざるを得なくなった。9月にはついに米軍が帝国領内へ侵攻した。東部ではソ連軍が中央軍集団を壊滅させ、ウクライナ、ベラルーシ、ポーランドを次々と奪い返し、オーデル川へ到達しようとしていた。

すべての前線で、血を流し、疲弊し、打ちひしがれたドイツ軍部隊が虚しい戦いに明け暮れていた。敗戦は確定したがいつまでも戦争は続いた。今となってはペルビチンも決死の抵抗と敵前逃亡のどちらかの役にしか立たなかった。ある装甲部隊司令官が簡潔に報告している。

我々はロシアから一刻も早く脱出するために、休まず延々と車を走らせた。100キロメートル走破するたびにペルビチンを呑み込み、給油のために停止しただけだった。

ナチス指導部はますます空疎に響く「最終勝利」以外、兵士たちのモチベーションを高める新しいスローガンを思いつかなかった。そこで国防軍は新薬の開発を決断した。その薬は疲れ果て、死を宣告された者をも奮い立たせ、形成を一挙に逆転して戦場の勝者とならしめるものでなくてはならなかった。ドイツはこの頃戦局を逆転させる夢の兵器を待望しその開発に虚しい努力を費やしていたが、同じように奇跡を起こす夢の薬物をも希求していたのだ。

1944年のドイツ海軍に組織的な抵抗と呼べるものは無かった。艦隊は戦う機会もなく既に消滅していた。制空権を失い、暗号を解読され、Uボート戦は停止に追い込まれた。アメリカは悠々と大量の物資と兵員をイギリス本土へと移送し、史上最大の作戦を着々と準備していた。

そのような時局、圧倒的戦力で迫る連合軍を阻止するよう命じられた男達がいた。ヘルムート・ハイエ海軍少将(当時)が率いる《小規模戦闘部隊K(Kleinkampfverbände der Kriegsmarine)》(以下K部隊)である。

K部隊はいわゆる人間魚雷による戦闘部隊であった。
かつてイタリア海軍の特殊潜水部隊「デチマ・マス」はヒトラーを驚愕させ、また狂喜させたものだった。たった数人のフロッグメンが特殊潜水艇を使用してイギリス戦艦の船底に爆雷を仕掛け、大破させたのである。イタリア降伏後は「デチマ・マス」に所属していた隊員達を、連合軍と枢軸がこぞってリクルートしたと言われる。

ドイツ海軍にも「KAMPFSCHWIMER」と呼ばれる特殊潜水部隊が急ごしらえで編成された。「デチマ・マス」の隊員によって訓練を受け、「デチマ・マス」と同じ装備を受領して作戦行動についた。だが彼らはほとんど戦果を挙げることもなく、ほとんどの兵員が死亡、または行方不明となった。

若者の命をゴミ同然に海の藻屑へ変えたのは、権力者の老人達であった。
ヒトラーは1944年の軍備会議で、新型の2人乗り潜水艇、小型Uボート、爆弾搭載の突撃ボート、1人乗りトルベート(魚雷搭載潜水艇)を使って敵の圧倒的な優位を覆すよう命じたのだ。

計画では敵の巨大船舶に密かに近づき、魚雷の発射準備を整え、いざ攻撃という流れである。そのためにはある程度の日数、昼夜を問わず眠らずに水中にとどまる必要があるのだが、これは覚醒剤ペルビチンでは力不足であった。そこで既存のすべての薬を凌駕する新薬が求められたのだ。

10種類の混合薬物が開発された。コカインやオイコダール、ペルビチン、モルヒネ誘導体ヒドロコドンを素朴にカクテルしただけの薬物である。即座に実験が開始されたが服用した兵士達には重篤な副作用が出現し、3分の2が生還しなかった。時は切迫していた。新たな薬物を手にするため、海軍が協力者として選んだのはナチス親衛隊だった。親衛隊は強制収容所で無限に実験体を保有していたからだ。

シューロイファー特務部隊

ベルリンの北方35キロメートル、小都市オラニエンブルクの周縁部に設置されたKZ(強制収容所)ザクセンハウゼンは、ナチスドイツが作った最も初期の強制収容所である。ナチス親衛隊の強制収容所監視部隊の司令部が置かれ、隊員達の教育・研修の場でもあった。約40カ国から20万人以上の人々がここに収監された。その内訳は政敵、ユダヤ人、ロマ・シンティ、LGBT、エホバの証人、ヨーロッパの被占領国の市民、反社会的人物、アルコール依存者、薬物依存者、共産主義者達であった。何万もの人々がここで飢餓、強制労働、虐待、医学実験によって命を落とした。ソ連兵捕虜も大量に連れてこられ、殺人プロセスを標準化するための頸部射殺用施設で銃殺された。

「シューロイファー特務部隊」は、ドイツの製靴業者のために休憩のない強制行進によって靴底の減り具合をテストさせられていた。ザラマンダー社、バータ社、ライザー社といった企業が最新モデルの靴をこのKZに送った。全長700メートルの歩行路で、58パーセントがコンクリート道路、10パーセントが噴石を敷いた道路、12パーセントが固めていない砂利道、8パーセントが汚泥で、これは常にぬかるんでいた。さらに細かな砂利道と石畳が各4パーセントとなっていた。つまりドイツの兵士たちが踏破し、征服したすべての道路の平均値がここに再現されていたのだ。

シューロイファー特務部隊は懲罰部隊であった。労働忌避者、賭博や不正に関わった者、食糧品を盗んだ者、怠慢、命令への不服従、あるいは同性愛行為の疑いがあるだけでもここに入れられた。

東プロイセンのゼンスブルク出身の博士号を持つ靴職人マイスターのエルンスト・ブレンシャイトがその責任者だった。彼はその残虐さで有名であった。毎日40キロメートルを歩かせ、靴底により強い負荷をかけるために重い荷物を背負わせたのである。おまけに追加の所見を得るためと称して、しばしば収容者に小さすぎる靴をあてがったり、わざと左右のサイズの違う靴を履かせたりした。

囚人達が10キロメートルを踏破するたびに靴底の減り具合がチェックされた。囚人はしばしば横になり、膝の屈伸をし、匍匐前進し、あるいはその場跳びをするよう命じられた。痩せさらばえた「シューロイファー」の誰かが卒倒することも少なくなかったが、ブレンシャイトはすかさずシェパード犬をけしかけた。この行進は悪天候でも、足並みを揃えたり、崩したり、あるいはグースステップ(膝を曲げずに脚を高く上げて進む歩き方)を挟んだりして続けられた。

ザクセンハウゼンで検査に合格した人造皮革だけが製造に使用することが許された。当局は収容者1人に対し6ライヒスマルクをKZに支払った。再生革(ボンデッドレザーファイバー)はほとんど1000キロメートル歩かないうちに利用不能となったが、IGファルベン社のソフトビニール製イゲリート・ソールは2000キロメートル強を踏破した。これらは全て労を厭わず記録されたが、実験によって死亡した囚人の数は記録されていない。推定では1日20人の囚人が絶命した。「労働による虐殺」。親衛隊ではそう呼ばれていた。

錠剤パトロール

1944年11月、海軍はシューロイファー特務部隊をある秘密司令のために借り受けた。
囚人達は純コカインを50mg〜100mgをも含有する錠剤、20mgのガムタイプのコカイン、従来のテムラー社の7倍容量ものガムタイプのペルビチンを渡された。服用後、30分してテスト歩行路での行進が始まった。

のちのユニセフ共同創始者オッド・ナンセンはこの時の実験についてこう記している。

驚嘆すべきパトロール隊が今、いつ果てるともなく練兵場の周りを行進している。歩兵部隊のようだ。彼らは皆荷物を背負い、歩きながら歌って口笛を吹いている。彼らは新開発の強壮剤のためのモルモットなのだ。彼らの体を使って、その錠剤を服用してどれだけ長く歩き続けられるかを見ようというのだ。最初の24時間が経過すると殆どの者が脱落して倒れ込んだ。この錠剤を服用すれば信じ難いことが可能になるという話だったのだが。そう、ドイツ人は今こそそのような錠剤を必要としているのだろう。

被験者3番のギュンター・レーマンは75mgものコカインの影響で、ただ1人翌朝まで歩き続けた。歩行距離は合計96キロメートル。「疲れの色も見せず」と皮肉な調子で実験記録には記されている。

このノーマンの記録はのちの実験グループのノルマとなり、このノルマを果たさずに歩くことをやめたら死が待っていると脅迫された。だからほぼ全員が要求された90キロメートルを踏破した。海軍一等軍医のリヒェルトは満足してこう記録した。
この薬剤の作用で個人の意向や意志はほぼ機能停止となった」それはいかにも無意味で人間を愚弄する実験であった。

リヒェルトが出した提案は、若い海軍兵士たちを睡眠なしの4昼夜の実戦に投入する際には毎回コカイン入りガムを渡し、そのガムを噛みながら勝算のない最終戦争に命を捧げさせるというものである。

1944年12月、ドレスデンでのちのヒトラーの後継者となるカール・デーニッツは5000人のヒトラーユーゲントの少年兵士達を前に志願兵を募った。彼はミニチェアの「特殊潜航艇」を少年達に見せつけ、これこそが最終勝利(エントジーク)の為の最後の希望であると讃えたのだ。

無数のヒトラーユーゲントが名乗り出た。殆どは15歳前後の少年達は配属先の港に連れていかれ、極秘任務用の制服を手渡された。小さな黄金のノコギリエイのロゴが縫い込まれた制帽を被ることでいかなる運命が自分たちを見舞うことになるのか、当然ながら若き少年兵士達には知る由もなかった。彼らは急拵えの特殊潜航艇に乗り込み、同じく急拵えのコカイン入りのガムを受け取った。まもなくほとんどの者が大西洋の冷たい波間で溺れ死ぬことになった。袋に入れて沈められた子猫のように。

ドーピング剤を投与された海軍小規模戦闘部隊「K」は、かつて世界征服を目前にのぞみ、敵から畏怖された軍隊の最後の残りカスであった。

戦後、海軍の医療部隊スタッフがニュルンベルク裁判で被告人席に立たされることはなかった。
K部隊指導者のヘルムート・ハイエは戦争を生き延び、生涯西ドイツ連邦で軍と関係を持ち続けた。
何の説明もないまま麻薬漬けにされ、狂気に囚われ溺れ死んだ彼の部下達は、今なお鋼鉄の柩から出られぬまま海底に沈んでいる。

その後〜CIAの「MKウルトラ」へ〜

ライプツィヒ大学の親衛隊大尉クルト・プレートナー博士はKZダッハウにおいて、効果的な尋問に関して薬物をいかに用いるかを研究していた。アウシュビッツ絶滅収容所で既に行われていた実験を引き継ぐ形であった。
これらの実験の出発点となったのは、ポーランドの抵抗運動の闘士達の尋問で、相手から情報を引き出すのに難儀したゲシュタポがフラストレーションを感じたことによる。

プレートナーは収容者に知らせぬままメスカリンを投与し、これが心の秘密の扉を容易に開いてしまうことを確認した。
メスカリンは向精神作用のあるアルカロイドで、アメリカ先住民は数千年前から祖先の霊や神々と交流する為の儀式でこれを用いてきた。つまり強い幻覚をひきおこす。

メスカリンを投与された被験者は、30分から1時間が経過すると変化が起きてくる。プレートナーはモルモットに「お前の考えていることは私に筒抜だ」と言って信じこませ、何でも自分から話したほうが良い、そうでなければ酷い目にあうぞ、と言い含めた。
この卑劣な戦略はうまくいった。

メスカリンが効果を発揮すると、質問の仕方を間違えない限り、実験者はいつでもその囚人の最も個人的な秘密さえ聞き出すことができた。エロスや性にまつわる話ですら自分からベラベラ話すようになるのだ。もう何も心の中にしまっておくことができない。憎悪や復讐心といった内心の感情が毎回明るみに出される。罠にかけるような質問でも見透かされることはないので、言質をとって相手に罪を着せることは実に容易である。

プレートナーは一連の実験を最後までやり抜くことはできなかった。米軍がダッハウ強制収容所を解放したからだ。米軍はプレートナーの実験資料を押収し、ワシントンD.C.の海軍医学研究所で研究を継続した。その成果を用いて、米軍は朝鮮戦争でソ連側スパイを見つけ出すことを目論んだ。戦勝国アメリカはロケット飛行に関する知見を第三帝国から労せずして手に入れたが、まったく同様に薬物を通して人体、精神を支配する術を第三帝国から学んだのだ。

プレートナーの先行研究に基づくアメリカの秘密プログラム「MKウルトラ」はマインドコントロール(MindKontrol)を目標としていた。コントロールをCではなくKとドイツ語表記としたのは、ドイツからの影響に対するオマージュと考えるべきだろう。

プレートナーは罰せられることもなく戦後を生き延び、1954年に フライブルク大学の員外教授に任命されている。

おわりに

筆者も子供の頃、ドイツ国防軍の華々しい戦果に胸を熱くした一人だ。戦車と飛行機を用いた革命的戦術、勇気、忍耐、戦友魂、死をも恐れぬ頑張り、国に対する忠誠……ドイツ国防軍こそが世界最強……最後は物量に屈したに過ぎない。

ただ、ナチのことを詳しく調べていくとそんな無邪気な考えは次第に消えて行く。当時の帝国政府が発したプロパガンダがほとんど形を変えずにそのまま伝わっている。ナチのプロパガンダは現代においてまだ生きているのだ、と知ることになる。

これらのナチスを好意的に捉える情報はホロコースト否定論を利する結果となり、今でもインターネットの世界でナチスは大人気だ。武装SSに憧れる中高生が山ほどいる。サブカルチャーの世界でも、ナチス親衛隊によく似た服装のキャラクターが冷酷だが誇り高き武人として登場する。現実に第三帝国崩壊に際して最後まで戦い続けたのは、ど素人の子供や外国人の傭兵ばかりだったのに。

全体主義的な国家や組織が、構成員の健康や意志、尊厳を踏みにじって自らの目的のために薬物を使用する例は、ドイツ第三帝国のペルビチンやコカインに限らない。同時代の英米で多用されたベンゼドリン、大日本帝国のヒロポン、最近ではオウム真理教のLSDなど、枚挙にいとまがない。アフリカでは少年兵士を洗脳するツールとして使用されている。女を性奴隷化するプロセスに覚醒剤が常用されている。

現在も世界各地で兵士の能力を向上させる薬物の研究開発が進められており、戦争と薬物は決して過去の問題ではない。

ナチスドイツが革命的な戦闘集団であるという通説は誤りである。「人間離れした偉業」は意志に反して投与された薬物によって、一時的に心身が活性化されていたからにすぎない。何の説明も受けぬまま麻薬漬けにされ、大西洋に沈められた少年兵士達は英雄ではない。メタンフェタミンを投与され、太平洋に散った若き特攻隊員達は冷酷な独裁体制による犠牲者である。

人々が雪の穴の中の死を英雄的な死と混同し始めると、必ずや誤った回答が出されるのだ。英雄的な死などない……あるのは憐れむべき死だけだ。スターリングラードの兵士たちはそのことを知っている……

――H・G・コンザリク「第6軍の心臓」

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