【群集心理】政治宣伝とは何か【プロパガンダ】

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(ドイツ第三帝国における例:大戦末期の宣伝相ゲッベルスと聴衆の、有名なやり取り)

ゲッベルス「諸君は総統と共に、そして我々とともに、ドイツ民族の全面的勝利を信ずるか!?」
聴衆の返事:「Ja!(イエス)」

ゲッベルス「諸君は容赦ない総力戦を欲するか!?」
聴衆の返事:「Ja!」

ゲッベルス「諸君はかくも必然的な戦争が、今以上にいっそう全面的かつ激烈なものとなることを欲するか?!」
聴衆の返事:「Ja!」

大衆に確信を持たせるためには、リーダー自身が確信を持たなければならない。彼自身が迷っていては大衆の信頼を得ることはできない。自ら確信を持ったリーダーにして初めて迷うことなく断定的なメッセージを発することができ、大衆に対して権威を持つことができる。

単純化し、断定し、反復することによって大衆に一定の考え、一定のイメージがしみこんでゆき、いつのまにか確固たる信念へと変わる。これは「パブロフの犬」とそうかわりはない。しかし反復の「しすぎ」はしばしば「しつこい」「飽きた」などの不快な感情を呼び起こし、逆効果をもたらす。広告会社や指導者はそれを常に見極めねばならない。

眠っている感情を掘り起こせ

プロパガンダは、新しい信念を植えつけることとは少し違う。眠っている感情を明確な形で顕在化させることに最も効果を発揮する。大衆の心の中にどこにも存在しない感情や欲求を新たに植えつけようとする試みはしばしば失敗する。現代の広告理論でも同じことが言える。
このことはリーダーが常に大衆を牽引することができないことを意味している。リーダーは常に大衆が何を求めているのかを探り出さねばならず、そうした潜在意識を鼓舞し、訴えかけることによって大衆を信望者へと変えることができる。(アメリカ合衆国における例:「少女とひな菊」上記参照 民衆の核戦争に対する潜在的恐怖を煽っている)

演説

「人を説得するのは文字で書かれた言葉ではなく、話された言葉によるものである。」ヒトラーはこう述べた。確かに歴史上における大衆運動は全て偉大な演説家によってその発展を見た。演説といえばヒトラーが圧倒的に有名だが、ヒトラーの演説内容は独創的なものでも感動的なものでもなかった。彼の演説内容は既存の陳腐なステレオタイプのかたまりでしかなかった。むしろヒトラーの演説は、その独特のスタイル、声の調子や抑揚、リズム、身振り手振りから力を引き出していた。そして、そこに大群集がいて、心理的一体感に酔える現場をナチが提供していたからに他ならない。ヒトラーの演説のスタイルは大群衆がそこにあってはじめて引き出されたものだった。ヒトラー自身、自分が持つ力はほとんど自分の周りに集めた群集の雰囲気から生じると考えていた。ヒトラーの演説を体験したものはこう述べる。

「私はあたかもヒトラーが私個人に話しかけているかのように感じた。私の心は明るくなり、胸の奥で何かが目覚めた」
「彼の強烈な意思、真摯さあふれるその情熱が彼から流れ込んできているかのように感じた。私は宗教的回心という意外に例えようもない精神的高揚を感じた。」
「ヒトラーのカリスマ性はまるで磁場のように彼から発散する一種の心理的迫力であった。ほとんど肉体でも感じ取れるほど、それは強烈なものだった。」

またナチはヒトラーが演説する際、大衆がヒトラーに帰依するように綿密に計画を施した。
・大衆が押し合いへしあいして、より一体感を味わえるように常に演説の会場は狭すぎるぐらいだった
・聴衆のうち3分の1は党員だった。サクラはその熱狂を他の聴衆に伝染させることができた。
・女性を常に聴衆の最前列にすえた。なぜなら女性は興奮しやすく、他の人々にその興奮を伝染させるからである。
・ヒトラーは常に声の調子や照明の具合などに気を配った。彼は政治を一種のスペクタクルだと考えていた。
・「演説は夜行え。夜は強い意志の支配に対し容易に屈服する。判断力も昼と違って、鈍くなっている。」by ヒトラー
・ヒトラーはしばしば聴衆を長い時間待たせた。ヒトラーが現れる間、親衛隊や突撃隊が太鼓を打ち鳴らし、ハーケンクロイツをひるがえして整然と行進した。演説者がかわるがわるヒトラーを褒め称え、マーチ音楽が緊張感を高めた。そして不意にヒトラーは現れ、喧騒きわまりない大衆に顔を向けるのである。

このようにヒトラーの演説は理性に訴えかけるものなど皆無で、徹頭徹尾、情感や官能に訴えかけるものだった。一種の集団催眠といっていいほど、彼らの演説は大衆プロパガンダの傑作を次々生み出した。

物事をあまり深く考えない人ほど騙しやすい

現代のプロパガンダについてのプロが発見した事実が5つある。

・広告に「新しい」「素早い」「やさしい」「向上した」「いま」「突然」「驚くべき」「発表する」が含まれているとその商品はよく売れる。(「素早く除菌!」「お肌に優しい弱酸性~~」「いま一番日本で選ばれている医療保険は?ア×ラック!」などなど)
・スーパーやコンビニでは客の目の高さの商品が最も良く売れる。逆に同じ商品でも、一番下の棚の商品はその半分ほどしか売れない。
・漫画や歴史上のキャラクターよりも、セックスアピールのあるモデル、赤ん坊、動物を用いた広告の方が、商品がよく売れる。(某消費者金融CMなどはグラビアアイドルやチワワを使っている ア×フル ア×ムなど)
・スーパーでは一番端の棚の商品やレジの近くの商品が最も良く売れる。
・1個500円の商品を、2個1000円で売ったほうがよく売れる。(「今だけ2つまとめて××円でご奉仕!」)

何故これら5つの方法が有効なのか?
我々は宣伝に対してほとんど心あらずというやり方で反応することがよくある。これをエレン・ランガーは「無思慮」と呼んだ。
人間は無思慮、つまり何も考えずにぼけーーーっとしてる時は、物事を深く考えずに決断してしまう。この場合、ある説得や宣伝を受けた時に、感情的に決断してしまいがちである。例えば、ある政策を訴えかける政治家がいるとしよう。この政治家がデブではげであぶらぎっている不潔なおっさんだったらどうだろうか?貴方はこのおっさんの言うことを支持するだろうか?無思慮な人はこれを支持しないと考えられる。いくら政策が素晴らしくても、そのことについてほとんど何も考えずに聞いているとしたら、政策の中身よりも話しているおっさんの印象やイメージで感情的に決断してしまうのである。逆に政策の中身に十分に興味を持ってしっかり聞いていれば、おっさんの見た目はある程度気にならなくなる。マスコミがある政治家をつるし上げている時に、その政治家が何をしたかではなく、その政治家の印象の悪さに便乗した経験はないだろうか?「何で(マスコミニ)叩かれてるの?」「いや、よくわかんないけど、なんとなくこいつむかつくじゃん☆」という会話の経験は?これと同じことなのである。つまり大部分の政治に無関心な大衆を動かすには、清潔で爽やかでクリーンなイメージを演出すればよい。小泉総理をみるとよい。簡単なことである。
人はある物事についていつも神経を尖らせているわけではない。なんとな~く流れ込んでくる情報こそ最も注意しなければならない、恐るべき洗脳かもしれないのである。グラビアアイドルやチワワのイメージで軽く金を借りてしまった人はいないだろうか?いないとは思えない。あのCMはナチが使った「感情に訴えかける」「反復する」「単純化する」を全て網羅している恐るべきプロパガンダである。注意すべし。「はじめてのア×ム♪」「どうするアイ×ル~♪」などの一言、二言で表現できる単純な歌もナチやボルシェビキの政治的スローガンと全く同じである。誰もがあの歌で某会社を思い浮かべる。

合理化せよ

ある物事を信じ込ませる時に合理化するという方法がある。かつてカミュは「人間は自分の人生が無意味でないことを確信するために全人生を費やす存在である」と言った。ではどうすればそれを確信できるのか。自らの行為を正当化するのである。
1957年、社会心理学者フェスティンガーは、認知的不協和理論という概念を提唱した。これはある物事を行うにあたって生じる矛盾を解消しようと人が行動しがちなことを言う。簡単に例を挙げると、健康に悪いタバコをあえて吸うという矛盾がここで言う「不協和」である。この不協和を解消するためには、「タバコを吸うのはカッコイイ」「タバコはストレス解消に役立つ」「タバコは時間つぶしに便利だ」、と思うことである。これを合理化という。このような自己説得というか、合理化は人間が自分の精神を守るために無意識に発動する防衛システムだと考えられている。宣伝においてもこれを利用するのである。例えば宣伝家はこの認知的不協和を意図的に起こすような説得を試みる。例えば何かに罪悪感を感じさせたり、自らを偽善者であると思わせたり、不適切感を連想させるような説得である。そしてこのような不適切感を解消するために、宣伝家の要求に従うことを暗示させるのである。こうして、哀れな犠牲者は車を買ったり、お金を寄付したり、敵を憎んだり、1票を投じたりするようになる。(例:原子爆弾を投下し、数十万人もの無抵抗の民間人を虐殺したアメリカ。アメリカ人は自らの国を「正義でフェアで自由の寛大な国」と思っているが、「民間人を虐殺すること」とは矛盾(不協和)している この不協和を解消するために、殺された民間人は「劣った猿のような残虐で邪悪な民族である」と思うことによって、不協和、罪悪感を解消する 彼らは原子爆弾を投下した是非について語る時、今でも「あの時の日本はファシストだったから」と言う 彼らは今でも原子爆弾投下を正当化している 本当は無意識に罪悪感で一杯なのである ナチの人種迫害にも同じことが言える ユダヤ人を邪悪で劣った人種だと思うことにって、迫害を正当化したのである)

レッテル張り、ラベル付けをせよ

これは政治的なスローガンの話によく似ている。
例えばあるアスピリンを宣伝する時に、「素早い効き目!これより早く効く製品はありません!」「これ以上胃に優しい製品はありません」と宣伝したとしよう。で、値段が他社のアスピリンよりも高い。国が実施したテストでは普通のアスピリンに比べて特別効果の強いアスピリンなどない。アスピリンは実はどの会社も同じ効果のアスピリンしか扱っていない。胃の荒れ方にも特別な差はないという結果が出ている。つまりアスピリンはどの会社もアスピリンでしかないのである。にもかかわらずこのアスピリンは他社よりも何倍も高い値段で売られていることがある。また、「多くの医師が推奨する」という決まり文句もある。しかし、成分表を見てみると、全然平凡だったりする。しかし、我々はなんとなくその「多くの医師が推奨する」高いアスピリンを買ってしまう。不思議である。
もちろん我々が注意深くチェックすればこれら見え透いた嘘は見抜かれることが多い。しかし、人はいつも神経を尖らせているわけではない。知らず知らずのうちに影響を受けて何となく騙される。

アメリカ大統領選挙にしろ、ナチのプロパガンダにしろ、レッテル張り、スローガンは反復することによって強大な効果を挙げた。

グランファルーン・テクニックを利用せよ

グランファルーン・テクニックとは要するに仲間意識である。ある実験では数人のグループ一人ひとりにコインを投げさせて表が出たグループ、裏が出たグループとわけるだけで、表グループ、裏グループというように明確な差別意識がうまれ、表グループのメンバーは同グループの人とは親しくするが、裏グループの人とはあまり会話しないなどのように、仲間意識と排他意識がみられたという。同じグループに属する人は、同じグループの規律やルール、期待を破らないように行動する傾向にあることがわかっている。仲間意識を持たせ、規律をつくり、当然それを守るべきであるとする雰囲気を作り出すことである。しかし人間には、自らの自由が失われると感じたとき、その自由を取り戻そうと行動する傾向を持っている。これは高圧的に命令されたりすることによって誰もが反感を持つことを例に出せばわかりやすい。これを心理的リアクタンスという。この心理的リアクタンスを起こさせないために、説得や命令は穏やかで友好的なものでなければならない。また仲間意識を鼓舞することによって心理的な高揚感や誇らしさ、を演出することが必要である。

宣伝に抵抗するにはどうすればよいか?

ここまで大衆という性質、プロパガンダの具体的な戦術の例、そしてその攻撃兵器であるメディアの威力についてまとめてきた。
この長々しい文章も終わりに近づいている。最後にまとめと、プロパガンダに対抗するための心構えのようなものを解説して終わりたい。

宣伝にどう抵抗する?
宣伝とは多くの場合、悲しいほどあからさまである。そのため多くの人は自分がだまされることはないとタカをくくっている。しかし実際には宣伝は馬鹿馬鹿しいほどに簡単に効果が出る。アメリカのベンソンというタバコは集中的に宣伝を行った結果、売り上げが7倍にもなった。マッテルという玩具会社は同様にして会社の規模が24倍にもなった。宣伝があからさまに利益を狙った誇張されたものだと多くの人は知っているが、それでも効果は計り知れないものがある。特に子供は宣伝に対する抵抗力が大人よりも低く、90パーセントの幼児がおもちゃやおかしを親におねだりするという結果が出ている。では子供はどうしてだまされるのか?子供は無垢だからか?実験結果は全く別のものであった。
子供は幼いころから白々しい宣伝に懐疑的な態度を形成させていく。アメリカの小学生の約90パーセントは6年生までに、広告宣伝の多くは、虚偽か誇張であるという冷笑的ともいえる認識を持つにいたる。こうした疑念は大人も同様である。しかしタバコの売り上げはうなぎのぼりである。ある特定の商品がよく広告に出てくるという理由だけで、その商品をよく買う傾向があるのである。
まず第一に、ある実験結果は「今から宣伝しますよ」と一言付け加えるだけでその後の宣伝の効果が薄れることを示した。逆に何の前置きもなく宣伝をすれば態度を変化させる被験者が多くいた。これは一言前置きを入れるだけで、心の準備が出来、宣伝に対する反証をする容易が生まれるからであるとされる。前置きは、「気をつけてください 今から私はあなたを説得しようとしているんですよ」といっているも同然なのだ。

しかしこれは被験者の個性が現れる可能性がある。人は固い信念を持っているように見られたいと思ったり、逆に、石頭ではなく違った意見も受け入れる余裕があるように見られたがったりする場合がある。前者の場合、前置きは態度を硬化させるし、後者の場合態度は軟化されるかもしれない。

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