【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】

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総括 およそ38mgの硝酸アコニチンを詰めた弾丸による創自体はひどいものではなかったが、2時間後に致死的な中毒が現れた。中毒症状の出現は、受傷後20分から25分で、主要症状は、流涎、瞳孔径の変化、腱反射消失、運動不穏、強い吐き気であった。

講師医学博士ムルゴウスキー、SS上級大佐、主席衛生官

上の手記と一致するかは不明だが、ザクセンハウゼン収容所で死刑囚を用いた毒の弾丸の実験が行われた、との展示がある。その射撃手はムッソリーニ救出の特殊部隊を率いた、オットー・スコルツェニーSS中佐である。

実験Ⅵ ユダヤ人の頭蓋骨収集

hiltストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士は、1942年の2月にヒムラーにあてて手紙を書き、ユダヤ人、共産党員、赤軍政治将校の頭蓋骨収集の許可を求めた。ヒムラーはおおいに関心を持ち、ヒルトに自分の政治的権力の全てを委ねてこれを支援した。

当時、ナチスドイツはありとあらゆる人種の頭蓋骨を収集して、その形態を測定したり、歪んだ人種優生学に基づく様々な研究を行っていた。しかし、ユダヤ人に関しては当時サンプルを獲得する術があまりなかったらしい。独ソの開戦はその状況を打開する最良の機会となった。既にホロコーストは開始され、ユダヤ人と共産党や政治将校は同一視されていた。彼らの頭蓋骨を一定量獲得し、データを取得することで、占領地において効率よくユダヤ人や政治将校と、その他の民族の鑑別を容易にし、効率的に撃滅できる、というのが彼らのデタラメな論理であった。

ヒルトとその協力者たちが、いかにしてそれらのサンプルを選定したかは定かでない。既に収容所にいたユダヤ人なのか、占領地から生きたまま拉致してきた政治将校や捕虜たちだったのか、とにかく、彼らがアドルフ・アイヒマンを通してアウシュビッツの囚人約120名を、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフ各収容所の実験施設へ送ったのは確かである。

それら120名の囚人は「首から上を傷つけぬように」ガスによって殺害され、合成アルコール入りの水槽の中で保存された。ヒルト博士はそれらの死体を細かく解剖。

ヒルトは戦後逃亡先で自殺した。

実験Ⅶ マラリア実験

ベルリンのロバート・コッホ研究所所長で、熱帯医学部門長であったクラウス・シリング博士は、1936年の現役引退後も、イタリアでマラリアのワクチンの開発研究を続けていた。1941年末、内務省保健衛生事業担当官のレオナルド・コンティ博士によってダッハウ強制収容所で研究ができることを勧められ、翌2月のはじめから実験を開始。1945年の3月半ばに74歳のシリングが手術を受けるためにミュンヘンにでかけたあと、ヒムラーが実験中止を命令した。(敗戦が近かったからであろうか?)

シリングの3年にわたる実験でおよそ1000人がマラリアに感染させられ、330人が死亡した。

実験Ⅷ 双子実験

ベルリン、ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優生学研究所所長のオトマール・フォン・フェアシュアーは、双子に関する研究を手広く行っていたが、戦争が始まると弟子のSS大尉、ヨーゼフ・メンゲレ博士をアウシュビッツに送り込んだ。彼はアウシュビッツの降車上に自ら赴いて、何千もの双子を集めてコレクションし、過酷な人体実験を行った。

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ヨーゼフ・メンゲレ

メンゲレは、静脈をつなぎ合わせてシャム双生児を人工的に作ろうとしたり、眼球に薬品を注射して瞳の色を変えようとした。また、チフス菌を注射して病気の経過を血清学的に記録した。また頭蓋骨の収集もぬかりなく行われ、それらの実験報告を師のフェシュアーに送っていた。メンゲレは3000対の双子を人体実験にかけ生き残ったのは100名だけだった。

ある生存者の報告

ある日、私の双子の兄のチビが特別実験のために連れていかれた。メンゲレは、最初から、チビに非常に興味を持っていた。なぜか知らないが、比較的歳のいった双生児であったからかもしれない。

メンゲレはチビを何回となく手術した。脊椎手術で麻痺となり、走れなくなった。

性器も除去してしまった。4回名の手術後、チビには2度と会えなかった。

私の気持ちがどんなだったか、あなたに言えないし、言葉にも表せない。

私は父、母、兄2人を失っていたのに、また双子の兄もなくしてしまった。

メンゲレは1979年に逃亡先のブラジルで海水浴中に死亡した。

実験Ⅸ 強制不妊化実験

ナチの歪んだ人種思想は戦争前から活発ではあったが、独ソ戦の開始と共に東方民族絶滅の意志はますます固くなるばかりだった。その手段としてずっと論議されてきたのが、断種措置による強制的な不妊化処置の遂行であった。

ナチの断種の施策は大きく分けると3つの経過をたどった。

薬品による断種

カラジューム・セグイヌム(サトイモ科の観葉植物の一種)を接種することによって、特に男性は生殖不能となるとされ、この植物を大量に栽培しようとするのだがコスト面で実用に耐えないことが分かった。ヒムラーは農業に大変関心が高い男であったため、カラジューム・セグイヌムの構成要素の分析を進め、人体実験を行うべし、との命令を発した。

しかし、これを命じられたコッホ博士はありきたりな動物実験を行うのみにとどめ、命令を事実上サボタージュした。それはあまりに実用性がなく、他の方法がどんどん進んでいたからであった。

放射線による断種

帝国公衆衛生局に所属し、障碍者の断種・殺害計画に関与したヴィクトル・ブラック博士は、放射線による断種の研究と人体実験の許可をヒムラーに求めた。それまで行われていた外科手術に頼る方法では、あまりに労力とコスト面で現実味がなかったからである。

これをヒムラーは許可し、第Ⅱアウシュビッツ(=ビルケナウ)や女性収容所のラーフェンスブリュックで、それぞれ放射線による断種の試みが行われた。若い適齢期の男女は、何の説明もないままに不意に呼び出され、性器や子宮、睾丸付近にレントゲンを照射された。

彼らの多くは火傷を負い、傷口は膿み、そのような体で重労働につかされた。歩けなくなったものは銃殺・ガス殺された。

レントゲン照射後数週間してから、男性囚人は外科的に睾丸を摘出された。レントゲンの効果がどの程度であったかを検証するためであったとされる。しかし、レントゲン照射を受けた囚人たちは局部に重傷を負い、結局は絶滅収容所の中で死んでいった。

ブラック博士は、この不妊化処置を「殺すよりはマイルドな方法」と認識していたらしく、裁判で「絶滅政策を緩和するためにあえて提案した方法だった」と証言した。法廷はこの詭弁を却下し、ブラックを死刑に処した。

子宮内の刺激作用による断種

drclaubergこの方法は、ケーニッヒスヒュッテの医学博士クラウベルク教授によって開発された。教授はもともと卵管閉鎖による不妊を治療する方法を開発して有名になった人物だった。

1933年にナチ党に入党し、その医学の知識を、今度は「下等人種」の断種のために傾けようとしていた。

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