ヴァチカンにとって、共産主義者やユダ公は憎き怨敵であった。それをきれいに片付けようとしているナチスドイツを、ヴァチカンが助けないわけがない。ナチの傀儡国家クロアチア独立国では、カトリックから送り込まれた僧兵が、ユダヤ人やセルビア人の絶滅政策に自ら手を貸していたという。文字通り機関銃を乱射して。
ナチスとヴァチカン、両者の利害は反共と反ユダヤという点では、ほぼ一致していたのである。
この映画は、おそらくそれを告発しようとした映画だ。SSの技術者ゲルシュタインと法皇の秘書官リカルドが、なんとかホロコーストを世界に知らしめようと奔走するのだが……。
普通のヒーロー映画ならば、神の愛が二人の主人公を祝福したであろう。しかし、もしも神の御心が反共と反ユダヤという憎悪で一色に染まっていたならば……。
異常に救いのないラストで、ホロコースト政策がキリスト教社会の人民の総意だったのだ、ということがよくわかる。憎悪に染まった欧州の闇の歴史を垣間見れる怪作だ。
サウルの息子/Son of saul(2015)
「ニーチェの馬」のタル・ベーラの助監督を務めた、ハンガリーのネメシュ・ラースロー監督の長編デビュー作である。「灰の記憶」と同様に末期のアウシュビッツを描いた映画だが、「灰の記憶」は言葉が英語だったのだが、これはユダヤ人たちがハンガリー語やイディッシュ語やドイツ語を状況によって使い分けている。
また、アウシュビッツの看守たちは、実際ウクライナ傭兵がかなり多かったのであるが、これはなんとそれらウクライナ兵にもウクライナ語やロシア語を喋らせている。ドイツ将校はちゃんとドイツ語を喋る。ポーランド語を喋る囚人もいる。ロシア語を喋るソ連兵POW(捕虜)もいる。言語だけでもアウシュビッツの世界の複雑さを知ることができる。
ユダヤ人雑用班のゾンダーコマンドが主人公。カメラは徹底して彼の目線で描かれる。ドイツ将校やウクライナ傭兵と絶対に目を合わせないように、常に彼の目線は伏し目がちである。彼らと目があえば、いきなり銃殺されたり拷問されたりするのがごく当然の世界だったのである。
同様にして、彼の周囲では筆舌に尽くしがたい残虐行為のオンパレードなのだが、彼は目を背け、下を向き、息子を埋葬するためにラビ(司祭)を血眼になって探す。それだけの物語だ。
決して重要なシーンをカメラの中央にとらえない撮影方法は、アレクセイ・ゲルマンの「神々のたそがれ」のようでもある。その分、人々の悲鳴や、多種多様の言語の交錯、銃声、炎のゆらめきなど、音響が雄弁に状況を物語っている。
アウシュビッツという名の地獄巡りを追体験できる映画だ。ぜひ大音量で体験してほしい。
ホロコースト映画と言えば、家族で一緒に観て、お手軽に感動をむさぼるジャンルとなってはいないだろうか?