東ヨーロッパ・ユダヤ史から紐解く、「ユダヤ人が嫌われる理由」

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西ヨーロッパの人口増加によって穀物価格が上昇すると、相対的にポーランド産の穀物が多く売れるようになり、ウクライナの穀倉地帯に大規模な開発のメスが入った。当時、ポーランド国内ではユダヤ人の経済活動は著しく制限されようとしていたが、新たに開発されたウクライナではユダヤ人にほとんど無制限の自由が与えられた。ユダヤ人がガリツィアに大量に流入したのはこのためである。

搾取の片棒を担ぐユダヤ人

ユダヤ人は貴族が持つ様々な独占権を賃借し、領地経営にあらゆるところでかかわっていた。貴族にとってみればユダヤ人に土地の経営権を任せることで、自ら帳簿をつける手間を省くことができ、悪天候や凶作による経済的リスクを最小限にしながら確実に一定の収益をあげることができた。もちろんユダヤ人賃借人たち(イディッシュ語でアレンダールと呼ばれる)も、ウクライナの小農からたくさん搾り取って私腹を肥やすことを忘れなかった。16世紀のポーランドでは、貴族の天国と農民の地獄のはざまにユダヤ人の楽園ともいわれた状況が出現することになったのだ。

また、ユダヤ人は貴族の買春の世話や恋文の取り持ち、余剰資産を処理して必要なものを購入したり、土地売買の仲介、領主の屋敷の修理や保全などもてがけ、忠実な僕、召使のように振る舞った。これはイディッシュ語でファクトールと呼ばれ「うちのユダヤ人」とでも訳される。貴族はファクトールの一人や二人いてこそ一人前、と思われていたし、ファクトールはアレンダール(上記、貴族の領地経営の賃借人のこと)の副業である場合も多かった。

このようにして、同時代の西ヨーロッパに比較すれば、ポーランドユダヤ人は安定して豊かな生活を送っていたが、ユダヤ人の中にも格差は存在した。大アレンダールやその子のアレンダールなども存在し、貴族の領地経営に中間利益を稼ぐ者が多く入れば入るほど末端の賃借人の稼ぎは少なく、生活はかつがつだったようである。しかし、一番下、すなわち農民たちは最も激しい収奪に晒されていた。農民には、自分たちはユダヤ人に収奪されているように見えた。

ユダヤ人にとってみれば、領地経営で得られた利益を領主に支払う義務を負わされており、それが達成できなければ鞭打ちや投獄が待っていた。そのためユダヤ人たちはなるべく領地から安く土地を借り、大きな利益を上げるために必死になった。そのしわ寄せはもちろん末端農民が背負わされた。農民からすれば、ユダヤ人は種まきもせず土地も耕さず、農民を食い物にして稼ぐ者たちであり、貴族の搾取の片棒を担ぐユダヤ人は、農奴制に喘ぐ農民たちの恨みを買わずにはおれなかった。

ポグロム(殺戮)

1648年、フメリニツキに率いられたウクライナ・コサックの反乱が、ポーランドにおけるユダヤ人の楽園に終止符を打った。ルーシン人(=ウクライナ人)はコサックに合流し、大規模な農民反乱となった。農民軍はいたるところでポーランド人とその僕であるユダヤ人を虐殺した。ユダヤ人犠牲者は10万から12万5000ともいわれ、ポーランドのユダヤ社会は大打撃をこうむったのだ。

戦乱による穀物生産量の減少と、西ヨーロッパにおける食糧事情の改善は、ポーランド貴族の領地経営において現金収入を著しく減少させた。そこで貴族たちが目をつけたのは酒である。輸出用に用意されたが販売されなかった穀物から酒を作り、農民たちに売りつけたのだ。

貴族が酒を作り、ユダヤ人が売りつける

酒の製造と販売権(プロピナツィアの権利と呼ぶ)は領主のみが独占的に手中にし、その権利を例によってユダヤ人が賃借した。領主の酒は領主の土地で働く小作農に高く売りつけられ、ユダヤ人がそれを仲介して利益をピンハネする構図が出来上がったのである。重労働に従事する農民たちにとって酒は唯一の慰めであったが、農民が買うことのできる酒は領主の作った酒に限られた。こうして領主は余剰穀物をうまく処理しつつ、農民に支払う給料を回収することができた。

18世紀になると、領地から得られる現金収入の5~7割をプロピナツィアが占めることになった。酒が領地経営の重要な収入源と変化して行ったのである。

プロピナツィアの権利の賃借料はかなり高額だったので、ユダヤ人アレンダールは混ぜ物をして粗悪な酒を売りつけてあこぎに稼ごうとしたし、農民に金がない時はツケで売ったりもした。農民は借金と酒の毒のために心身を壊し、破滅へと追い込まれて行く。

残虐な農奴制に戦乱が拍車をかけた。フメリニツキの反乱以降、ポーランドではロシアやスウェーデンとも戦うために多額の戦費が必要だったが、ユダヤ人にはこれまでも不当に高額だった特別税のほかに、戦費調達を目的とする多額の税を課せられた。そのようなユダヤ人社会で下層のユダヤ人から徴税を請け負うのはカハウと呼ばれたユダヤ人たちで、彼らは自分の私腹を肥やすために多めに税金を取り立ててかすめ取ることを忘れなかったし、下層ユダヤ人に金を貸し付けてその利子で更に私腹を肥やしたのである。

ハプスブルク領邦ガリツィア

1772年、ロシア帝国とプロイセン、ハプスブルク帝国によってポーランドは分割され、ガリツィアはハプスブルク帝国の領邦となった。

その人口は約250万で、3分の2は過酷な賦役によって消耗したルーシン人と推測され、ユダヤ人は20万人程度と推測されている。圧倒的に多数派だったのはルーシン人だったが、ハプスブルク朝の元でも少数派のポーランド貴族が領地を経営してウクライナ小農から搾り取り、ユダヤ人がその中間利益をかすめ取るという構図はあまり変わらなかった。ユダヤ人は相変わらず天文学的な税金を課せられ、そしてユダヤ人の間でも搾取や収奪が激しく行われ、ほとんどのユダヤ人は乞食同然に貧しく不潔で、あらゆる害虫に体を食われていた。ハプスブルク朝のガリツィア統治の中心地となるはずのルヴフ(=リヴィウ=Lviv)は「言語に絶する滅びよう」を呈していたという。

18世紀も後半になって来ると、ユダヤ人への差別政策(不当に多額の税金の徴収や、職業の制限)を改めようとの機運が生じる。しかし、それは長らく有名無実な考え方で、ユダヤ人を取り巻く構造はなかなか改善されなかった。

ユダヤ人や小農たちの状況が多少なりとも改善されたのは、19世紀半ばのウィーン三月革命の頃である。そこでは「あらゆる国民の法の下での平等、憲法に基づく自由と秩序という原則」が提唱された。これは小農とユダヤ人の解放へとつながっていくと同時に、ガリツィアのルーシン人(=ウクライナ人)の民族活動の開始をも意味していたのだ。

ハプスブルク朝崩壊と動乱の時代

1918年11月、第一次世界大戦の敗北と共にハプスブルク朝は滅亡し、諸民族の春が訪れた。民族自決の名の下に、東欧民族が独自の国家を持つという、長年の悲願を果たそうと動き始めるのだ。君主政治が終わりを迎え息を吹き返したのが、長い帝政のもとでアイデンティティーが曖昧となっていた東欧の諸民族である。

東ガリツィアでは、ハプスブルク家による統治が終焉を迎え、ウクライナ人が独自の国家を旗上げしようとする。これは西ウクライナ人民共和国と呼ばれた。