これはナチズムの時代においても変わらず存在した考え方で、強制収容所の囚人が銃後で安全に暮らすことを許さず、致死的な医学実験の材料にしようとした人々がいた。詳しくは下記。
ドイツにおいては優生学はワイマール共和国やそれ以前から存在した。第一次大戦中には精神病院の7万人の患者が餓死させられた。これは優生学や、「低価値者」や「人間の抜け殻」に対する過激な処置が、ナチの専売特許ではないことを示している(もっとも、この飢餓の大元の理由は英軍の海上封鎖が原因であるが、限りある食糧を分け与える際に選別されるのは、多くの場合戦争に役立つ人間であった)。「低価値者」や「人間の抜け殻」を世話するために、未来有望な若者たちが足を取られ、大量の税金が投入されることに怒りを燃やす人々が存在したのである。
本来優生学は、混血を奨励し、反ユダヤ主義を非合理的なものとして批判していた。
しかし、1933年にヒトラーが政権を獲得すると、優生学は過激化し、同年7月にはドイツ初の断種法「遺伝病子孫予防法」が成立。本人の合意なしに強制的に不妊手術を実施できるようになった。
1939年には、総統命令により障害者抹殺計画「T4作戦」が開始された。これはナチスの優生政策がたどり着いた最終到達点であった。精神病者や精神遅滞児などの心身障害者は、人知れず殺戮センターに移送され、一酸化炭素ガスによって窒息死させられた。これは「安楽死」などと呼べる殺し方ではない。犠牲者は10万とも20万人とも言われる。
戦後は、ナチズムへの批判から優生学は諫められたが、ホロコースト同様に断罪された、とまでは言い難い。また、ベルリンでソ連兵による強姦被害にあった50万人の女性の堕胎手術は認めざるを得ず、その後も社会の中でひっそりと生き残った。
日本の場合
戦時中、日本はナチスやアメリカの優生学を取り入れて「民族優生法」「国民優生法」を制定し、各種精神病や籟病(ハンセン氏病)、性病、脚気やがん、結核などが排除の対象となった。
しかし、当時の日本は戦争の時代であり、産めよ増やせよが奨励されていたこともあり、根拠の曖昧な遺伝学的理由に基づく断種や中絶に反対する者も多かった。また、天皇を中心とした家族国家主義の理念にも反するものがあり、中絶や断種の実行には様々な制約が課せられていた。どちらかといえば、中絶を監視し、制限する法律として機能していたのである。
ナチスドイツを反面教師として、優生学は戦後社会で諫められてきたが、日本では再び「優生保護法」が1948年に制定され、1996年まで施行されていた。
優生保護法は世界に先駆けて中絶手術を合法化した。この法律の第1条には、
優生上の見地から、不良な子孫の出生を予防するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする
とある。公式統計によれば、優生保護法の施行の間に、強制断種手術は16500件実施された。また日本的な建前でよく見られるように、形式的には同意に基づいていても、実際は強制に近いケースで中絶や断種、隔離が行われていた(ハンセン氏病を例に挙げるまでもなく)。その数は公式統計で845000件である。方法は精管や卵管の結紮や切除に加え、子宮の全摘出手術も行われてきた。
ピークは50~60年代であるが、80年代にも140件の断種手術が行われている。
70年代以降、優生保護法は障害者差別の具現化であるとして批判された。