【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】

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アウシュビッツから、子供や青年からなる11人の囚人がザクセンハウゼンにやってきてドーメンに委ねられた。ザクセンハウゼンの第二病棟において彼らの世話をしていた古参囚人ブルーノ・マイヤーは、実験の内容について記録を残している。以下に引用する。

ドーメン博士は医療器具カバンから一本の斜めに歯のついたゾンデを取り出してサウル・ホルンフェルトの背後へ近づき、指で彼の背中を探りました。そしてゾンデを当て、子供の背中の筋肉を通して深く体の中まで突き刺しました。サウル・ホルンフェルトは痛みのあまり、自分の小さな拳を噛みました。急いで私は彼の前へ歩み寄り、声を押し殺して、しっかりしろと言いました。涙で見えない目で彼は私を見ました。そして、医者が再びゾンデを突き刺しました。(中略)その後、私は、ドーメン博士がゾンデから長い針を抜き、ゾンデの開口部に急いで試験管をあてがうのを見ました。黒っぽい血が試験管の中へ滴り落ちました。小さな組織も、―—多分肝臓の一部だったでしょう——少しその中に混じっていました。

結局、肝炎ウィルスを人為的に感染させる実験は成功しなかった。ドーメン博士や囚人たちがその後どうなったかは明らかではないが、博士は戦後実験結果を発表している。

医療用ゾンデ

医療用ゾンデ

実験Ⅳ スルフォンアミド実験と骨移植実験

人為的にガス壊疽を作り出す実験

1942年5月、《国家保安本部(RSHA)》長官及び、ボヘミア・モラヴィア保護領副総督ラインハルト・ハイドリヒがイギリス諜報部の襲撃を受けて重傷を負った。治療の責任者は武装SSの顧問外科医カール・ゲプハルトであったが、ゲプハルトの飛行機は延着したので直接手術に携わったのはプラハの医師二名である。ゲプハルトは《総統》とヒムラーの個人的な電話を何度も受けた。ヒトラーは自分の主治医であるモレル博士を派遣するとまで言った。

しかしハイドリヒは処置の甲斐なく6月2日に死亡。ゲプハルトはその後ヒムラーと謁見し、「ハイドリヒの死はドイツがこれまで経験したことのない巨大な敗北であった」と《総統》が考えていることを知らされた。ゲプハルトには汚名返上の機会が与えられた。ハイドリヒ長官が負傷による敗血症によって死亡したことを受け、至急、スルフォンアミドの効果を調べる人体実験の実行が決まった。

実験の舞台に選ばれたのは女性専用の強制収容所ラーフェンスブリュックであった。実験の目的は、当時未解明な部分が多かったガス壊疽という症状を分析し、有効な治療方法を見つけ出すことであった。そして、同時に戦場で多く見られる通常の傷口を調べ、有効な治療法を探す目的もあった。

被験者はザクセンハウゼン強制収容所から連れてこられた男性囚人や、ポーランドの抵抗運動に携わった女性囚人たちである。彼らはわざとけがを負わされ、木片やガラス片を傷口に練りこまれた。

《帝国医師総監》グラヴィッツは、実験場を視察し、被験者に死者が出ていないことに対して実験が手ぬるいと感じ、本物の銃創を彼女たちに負わせるように、と命令した。ゲプハルトはこの命令を拒否したが、より傷口の状態を悪化させることに努力したことに変わりはなかった。彼女たちは下腿の血管を結紮され、壊疽性の腐敗病原体を接種させられたりした。そのうえで彼女たちは処置も受けられず何日も放置され、本物のガス壊疽の症状により3名が死亡した。

人為的にひどい敗血症に陥らせた上でスルフォンアミドの効力を実験したが、傷を負わされただけで何の処置も受けられない囚人もいた。実験内容は1943年の5月にベルリンの軍医大学校で発表されたが、出席者の中で被験者の人権について申し述べた者は一人もいなかった。

他人の骨を移植して治療効果を見る実験

ラーフェンスブリュック強制収容所内で、女性を使って行われた他の実験群は骨の再生と骨の移植の実験である。

肩胛骨を他方から他方へ移す実験が行われた。肩胛骨を除去されたのは、ラーフェンスブリュックの精神病患者の女性であった。この女性は肩胛骨を抜き取られた後速やかに薬殺された。肩胛骨を移されたのは、ホーエンリーヘンの血管の癌により肩胛骨を失った若者で、彼は癌を再発することなく生きながらえたという。

この実験のほかにラーフェンスブリュック収容所内で、神経再生、筋肉再生の各実験、切断やその他の実験が行われたといわれるが、その規模や詳細は不明である。収容所医師の一人、ローゼンタール博士は、負傷に苦しみ、助かる見込みのない重症の囚人を20~30人、楽に死なせるためにモルヒネを過剰投与したと断言している。

実験Ⅴ 毒物接種実験

イペリッドガス

大戦期間中、ザクセンハウゼン、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフの各強制収容所内でびらん性(皮膚をただれさせる作用)のイペリッドガス(=マスタードガス)の人体実験が行われた。これは例によってヒムラーの命令だった。

イペリッドガスによる負傷の度合いと、効果的な治療法を見つけることがその目的である。この実験はストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士などが主にかかわった。

この毒ガス実験については、ナッツヴァイラーのカポ(囚人頭)であったフェルディナント・ホルの生々しい証言が残っている。

囚人たちは真っ裸にされ、次から次へと実験室の中に入ってきました。彼らは前膊から10センチほどの箇所にその液体を塗られましたが、その時私が彼らの腕を抑えていなければなりませんでした。その後、処置を施された被験者たちは隣の部屋へ行き、そこで腕を広げたまま約1時間立っていなければなりませんでした。約10時間もすると、あるいはもっと長かったかもしれません、火傷が、それも全身に出てくるのです。盲目になった人々もいました。ひどい苦しみで、被験者たちのそばにはとてもいられないほどでした。その後、被験者たちは毎日写真を撮られました。しかもすべての傷の箇所を、つまり全ての火傷の箇所を写真に撮られました。だいたい5日か6日後に最初の死者が出ました。(中略)内臓、肺などは全て完全に腐食していました。その後の数日間に、この実験でさらに7名が死にました。実験は約2か月続けられました。

実験は何度も行われ、平均して毎回7~8名の死者が出た。生き残った者たちも後遺症の残った体でアウシュビッツやベルゲンベルゼンに送られた。

硝酸アコニチン弾丸の創痍研究

極秘事項

帝国医師ー親衛隊警察、主席衛生官

日誌番号 秘364/44 ムルゴウスキー

1944.9.12

硝酸アコニチン弾丸について

SS少佐ディング博士、ウィマン博士、および筆者立ち合いで1944年9月11日、5人の死刑囚に、毒物である硝酸アコニチン結晶入りの弾丸(直径7.65㎜)を用いて実験を行った。被験者を寝かせ、左大腿に1発撃ちこんだが、2人では弾丸は貫通、後になっても毒作用は出なかったので、実験から除いた。(中略)

3人の症状は驚くほど一致していた。最初は異常がなかったが、20分から25分後に動きが不穏となり、遅れて、よだれが少し出始めた。しきりに飲み込もうとしたが、量が増えて飲み込めないほどになり、ついには、泡を含んだよだれが口から漏れてきた。それから、吐き気、嘔吐が始まった…。

約90分後、1人の呼吸が深くなり、同時に運動不穏も増強した。呼吸は浅く速くなった。同時に強い吐き気が現れたが、吐こうとしても何も出なかった。指を4本付け根まで口に深く入れて吐こうとしたが吐けず、顔は真っ赤になるだけだった。

他の2人の顔は早い時期から蒼白になっていた。他の症状は同じだった。運動不穏の出現は遅れたが、極めて強くなり、棒立ちになったかと思うと、また、床に身を投げ出した。白目をむき、手や腕は意味のない動きをした。最後に、不穏の程度は弱くなり、瞳孔は極度に散大、被験者は静かに横たわるだけだった。1人には咬筋の痙攣が現れ、尿失禁が認められた。3人の死亡は、受傷後それぞれ、121,123、および129分であった。

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