【ヒトラーを支えた共犯者たち】ナチスの最も極悪な10人

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オトマール・フォン・フェアシュアー
Otmar von Verschuer

「死の天使」メンゲレの師

Otmar von Verschuer

大戦中、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優生学研究所所長の地位にあり、ナチ時代のドイツにおいて人種優生学や遺伝生物学を研究していた。アウシュビッツの「死の天使」ヨーゼフ・メンゲレは彼の弟子にあたる。メンゲレが双子を用いた人体実験を繰り返していたことは有名だが、フォン・フェアシュアーはメンゲレよりもずっと前から双子に着眼して様々な医学実験を行っていた。彼はまさにその道の権威であった。

メンゲレはアウシュビッツ医師の立場を利用して、ユダヤ人や双子の囚人に非道な人体実験を行ったが、研究レポートは全て師であるフォン・フェアシュアーに送られていた。それら研究書類はトラック二台分にもなったという。

フォン・フェアシュアーはヒムラーによって許可を得てアウシュビッツでの人体実験を指導・監督していた。メンゲレは手足となって動いていたに過ぎなかったのである。メンゲレは、殺されたジプシーや発疹チフスに感染させられたユダヤ人、双子の体の一部や、眼球、内臓、骨や血液のサンプルなどをベルリンの師に送っていたことがわかっている。

戦後の調査で、フォン・フェアシュアーがホロコーストをはじめとしたナチの破壊的な人種偏見の思想的バックボーンとして君臨していたという、いくつもの証拠が見つかったが、彼は訴追されることなく、ミュンスター大学の遺伝学教授に就任。更に、彼はアメリカの優生学協会の一員として、その道の権威として君臨し続けたという。

1969年、メンゲレの闇の実験の全貌を明かすことなく、自動車事故によってフォン・フェアシュアーはこの世を去った。カイザー・ヴィルヘルム協会はマックス・プランク協会と名を変え、今なお存在している。


ヴィクトル・ブラック
Viktor Brack

障害者安楽死計画「T4」とホロコーストの技術面を補佐したSS医師

Viktor Brack

ナチスドイツの悪名高い障害者安楽死計画「T4作戦」の主催者となった男である。

1939年10月、ヒトラーは、精神障害者安楽死計画の実行を指示した。この頃帝国公衆衛生局の連絡担当官の地位にあったのがヴィクトル・ブラックであった。

ブラックは、1939年12月、ティアガルテン4番地にある自分の事務所を「T4作戦」の本部とした。帝国公衆衛生局の庁舎内ではなく、ブラックの事務所を使ったのは、政府が精神障害者を抹殺していることを秘匿するためであった。障害者安楽死計画により、終戦までに27万5,000人の障害者がガス殺、投薬注射などによって殺害された。

その後、ブラックは、《ルブリン管区親衛隊及び警察指導者(SSPF)》オディロ・グロボクニク親衛隊中将の推挙を受けて、絶滅収容所におけるガス殺の技術面をサポートした。

1941年には、ユダヤ人を断種するための強制不妊化処置として、X線を使用した方法を考案。ヒムラーにこの方法を認めるようにと手紙を書き、ヒムラーはアウシュビッツの囚人で実験することを許可した。

彼はSS隊員でもあり、親衛隊上級大佐にまで出世したが、戦後は数々の非道な行為に加担した罪を問われ、絞首刑となった。ナチス時代に障害者の安楽死センターとして機能したハダマ―精神病院の記念碑にはこう書かれている。

    人間よ、人間に敬意を!


テオドール・アイケ
Theodor Eicke

強制収容所世界の創始者

Theodor Eicke

生来から粗暴な気質の持ち主で、第一次世界大戦には歩兵として出征し、いくつも勲章を受けるが敗戦後の動乱の中で職を転々とし、苦い挫折を味わった。そして、ヒトラーの親衛隊(SS)に活路を見出すが、同僚の党員とたびたび衝突を起こし、あろうことかナチ党員の爆殺謀議のかどで懲役刑を言い渡されてしまう。ナチ政権成立後は他の党幹部ともめ事を起こし、なんと精神病院へ入院させられてしまう。

しかし、《親衛隊全国指導者》ヒムラーはアイケの粗暴な気質を頼りにした。1934年の《長いナイフの夜》の際にはレーム粛清において重要な一翼を担い(レームを銃殺したのがアイケである)、その後はヒムラーより《強制収容所総監及び警備長官》に任命され、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーヘンヴァルト、リヒテンベルクといった強制収容所を支配下におさめ、その警備部隊として《髑髏部隊(SS-TV)》を結成する。《SS-TV》は軍隊式に編成され、後の武装SSの重要な戦力となる。