家族をNKVDに殺されたウクライナ人たちは、ユダヤ=ボリシェビズムのプロパガンダを鵜呑みにすると同時に(彼らはそれを信じたかったのだ)、積年の恨みが募るユダヤ人たちに襲いかかった。ナチス親衛隊の特殊部隊がポグロムを組織するために監獄の大量の死体の山を一般公開し、ユダヤ人がやったこととして大宣伝した。ウクライナの人々は一斉にユダヤ人街に殺到し、手当たり次第にユダヤ人を殺し始めた。女は服を引っぺがされて公衆の面前で殴り殺された。赤子は足をつかまれて頭を叩き割られた。無数の屍が街路を埋め尽くした。家屋には火が放たれ、物品は略奪された。ガリツィアの35の地点で似たようなポグロムが発生し、夥しい数のユダヤ人が殺された。
その後、ルヴフをはじめ、ガリツィアのユダヤ人ゲットーは解体され、そこで暮らしていたユダヤ人たちはベウジェッツ絶滅収容所へと送られるが、死体の処理能力が限界を迎えるとベウジェッツは閉鎖され、代わりにルヴフのヤノフスカ収容所が絶滅の役割を果たした。ヤノフスカ近郊の砂地の処刑場では、夥しい数のユダヤ人が死の穴の縁で後頭部を撃たれて殺害された。
戦後も憎しみは連綿と・・
独ソ戦直前では57万人とも言われた東ガリツィアのユダヤ人で、ホロコーストを生き延びたのはわずか2パーセントである。
1944年、7月にはソ連がルヴフをナチから取り戻したが、街からユダヤ人が消えた事実に対して、人々は冷淡だった。
「ドイツの占領は耐えがたいが、一つだけ利点もある。やっとのことで我々はユダヤ人から解放されたんだから。これについては、ヒトラーは銅像に値する」
これが生き残ったユダヤ人が聞いた街の声だった。
ウクライナではいまだに反ユダヤ主義が根強く、かつてのルヴフの美しいシナゴーグの来歴を記した説明版には「死ね、ユダヤ人」と大きな落書きが書かれている。1941年のNKVDによる囚人の大量銃殺の現場に建つ慰霊碑には、犠牲者の中にユダヤ人もいたことを示すダヴィデの星が何者かによって何度も塗り消されているという。
主な出典・参考・引用