少し前に、独りでドイツとポーランドを旅行しました。その際にアウシュビッツ絶滅収容所跡地を訪れました。想像よりも遥かに広大な施設で、展示を全部観ることは不可能でした。そこで得た知見や体験をまとめたいと思います。
アウシュビッツ絶滅収容所とはなんなのか?
一言でいえば、ドイツ政府が作った、ドイツ民族の敵を絶滅させるための場所です。
ドイツ民族の敵
ユダヤ人だけに限らず、同性愛者、共産主義者、ソビエト兵捕虜、エホバの証人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)……などなどです。(余談ですが「ニート=労働忌避者」も絶滅対象でした)
その他の絶滅収容所
ほかにヘウムノ、ベウジェツ、トレブリンカ、マイダネク、ソビボルなどがありました。アウシュビッツはその中でも最も大きく、最も新しく、最も長く使われた絶滅収容所です。
第Ⅰアウシュビッツ、第Ⅱアウシュビッツ=ビルケナウ、第Ⅲアウシュビッツ=モノヴィッツが存在していました。モノヴィッツは現存していません。
アウシュビッツという名
ポーランドのオフィシエンチムのドイツ語の呼び名です。ドイツの支配領域のほぼ中心に位置していました。
絶滅収容所はポーランドにだけ建設された
戦後間もなくの頃は、ダッハウやマウトハウゼンも絶滅収容所と考えられていましたが、現在はドイツ国内に絶滅収容所はなかったというのが通説です。
収容所長ルドルフ・ヘース
髑髏部隊出身
1900年生まれ。最終階級はSS中佐。1934年に強制収容所総監テオドール・アイケの下で親衛隊(SS)《髑髏部隊(SS-TV)》へ入隊し、ダッハウ収容所で勤務。収容所官吏としてのキャリアを積む。親衛隊全国指導者ヒムラーによって抜擢され、アウシュビッツ所長に就任してからは、収容所近くに家を構えて、家族と共にそこで暮らし、殺戮を監督した。
250万人殺したと証言
ナチスの黒い虐殺機構の歯車の一部となってからは、一度として上に盾突くこともなく、人々をガスと強制労働と人工的飢餓により殺し続けた。戦後の裁判では250万人を殺したと証言。(アウシュビッツの死者は100~150万人と推定されている)
絞首刑
1947年にポーランドの人民政府によって絞首刑にされる。処刑の地は皮肉にもアウシュビッツ構内であった。ヘースは死の間際、「人々は私もまた、心を持った一人の人間だったとは信じられないだろう」「命令だから実行せねばならなかった」という言葉を残した。
アウシュビッツにはどうやって行くのか?
アウシュビッツミュージアムは一年中誰でも訪れることができます。
バスが便利
国鉄「クラクフ本駅」からバスで1時間40分ぐらい。鉄道でオフィシエンチム駅まで行って歩くことも可能だが、より長い時間がかかる上に、駅からミュージアムまでは20~30分程度歩くことになる。料金も少し高い。バスがオススメです。
冬季以外はガイドが必要
ガイドを雇うことで、送り迎えを世話してくれます。冬場以外は、アウシュビッツの中に入るには専門ガイドの随伴が必要です。中の案内と送り迎えがセットになっていることもしばしば。詳しくは旅行会社に問い合わせてください。専門ガイドには、有名な日本人ガイドの中谷剛氏がオススメです。ポーランド人のガイドにも日本語を話せる人はいます。
古都クラクフ
クラクフはワルシャワから特急で約3時間程度の場所にある古都です。よく京都に例えられます。旧市街は中世の景観が残る、とても美しい街です。
アウシュビッツミュージアム
開館時間
午前8時だが、閉館は季節によって異なる。冬季は午後3時まで。夏季は午後7時まで入場できます。
写真
撮影は基本的に自由だが、フラッシュは禁止。一部の展示物は撮影禁止。
ガイド
4~10月は第Ⅰアウシュビッツは専門ガイドを雇わなければ入れない。冬季は自由。日本語ガイドは中谷剛氏(3000円ぐらい)。英語がわかるなら英語ガイドのほうが安い(500円ぐらい)。集団ガイドなので英語がわからなくてもついていくだけで参加は可能。でもどうせならじっくり観るためにも日本語ガイドがオススメです。
連絡バス
第Ⅰアウシュビッツと第Ⅱアウシュビッツ間は徒歩で20分。連絡バスが走っているので利用するのが普通です。
写真の紹介
アウシュビッツ博物館は広大で、おそらく丸一日かけたとしても全部見て回ることはできないでしょう。
アウシュビッツで何が行われたか?
略奪
ユダヤ人などの絶滅対象の人々は、アウシュビッツに到着するとまず身に着けているものを脱がされ、荷物や物品を略奪されました。金目の物を隠し持っていた場合は大抵その場で銃殺されました。
また、移送前から嘘情報で荷物をたくさん持って来させた上でそれらを略奪したり、トランクだけ別の貨車で運ぶからと、トランクに名前や住所を書かせたうえでそれらを奪ったりしました。トランクの持ち主は大抵家族やコミュニティごと絶滅させられましたので、トランクには引き取り手もなく、博物館に大量に展示されています。
その他、眼鏡、被服、食器、義手義足、靴、ユダヤ教のお祈りの際に使う布など、あらゆるものが略奪されました。ドイツ政府はそれらの略奪品を再利用したり、それができない場合は破棄しました。それら膨大な量の略奪品も博物館に展示されています。
1945年1月、アウシュビッツを解放したソ連軍は、倉庫内に大量の仕分けられた略奪品が残されているのを発見しました。また、記録によれば、解放前の一か月間で大量の物資がアウシュビッツから持ち出されたことがわかっています。それでも運びきれなかった品はSSが倉庫に放火して証拠を消そうとしましたが、それらはあまりに膨大な量で、全ての証拠を消しきることはできませんでした。
労働を通じた絶滅
ドイツ人は囚人の食事を極限まで減らした上で、最大の労働効果をあげようとカロリー計算までしていたそうです。囚人が厳しい労働を通じて死んで行くことが望ましかったのです。
石切り作業や土木工事などの厳しい労働に駆り出された者たちは短期間で死亡しました。反面、厨房作業員はつまみ食いできたので人気の仕事でした。また技術者や医療従事者は優遇されました。死体の片付けや荷物の仕分けなどを行うゾンダーコマンドはかなり食事を優遇されましたが、証拠隠滅のため数か月おきに全員処刑されました。
カポという囚人頭はほかの囚人を暴力で統率しました。食事を優遇され、個室も与えられたといいます。カポになれたのは主にドイツ人刑事犯など、比較的ナチ思想のヒエラルキーの中では高い地位にいた者たちです。カポは囚人ではありましたが、残虐行為を働いたとして戦後訴追された者もいます。
囚人に階級をつけ、食糧に差をつけることで、彼らがお互いに憎みあうように仕向け、団結することを防ごうという目論見があります。
ガス殺
第Ⅰアウシュビッツに1つ。第Ⅱアウシュビッツに4つのガス室と焼却場から成る「クレマトリウム」という巨大な施設がありました。囚人たちはアウシュビッツに到着するとまず「労働可能」「人体実験」「無価値」と三つに分けられました。「無価値」と認定された者は即座にガス室へ送り込まれて殺害されました。
「無価値」と認定されたのは主に身長120cm以下の児童、妊婦、老人、病人、障碍者です。
また収容所のひどい環境で働けなくなった病人や衰弱した者はすぐに殺されました。
医学実験
アウシュビッツでは、「死の天使」と呼ばれたメンゲレ医師をはじめ、たくさんの医師がいました。彼らは囚人を使って本国では試せないような人体実験を行っていました。外科手術の練習をしたり、双子を用いた奇妙な実験がその代表です。
拷問・公開処刑
14万の収容者に対して、警備兵は数千名でした。しかもそのほとんどはウクライナ人の傭兵で、ドイツ人のSS隊員は多くありませんでした。
秩序を維持するため、警備兵は囚人をことあるごとに虐待し、拷問を加え、公開処刑にしました。木の杭に縛り付けたり、鞭打ち刑など拷問メニューは多岐にわたりました。
囚人たちは、SSやウクライナ兵に目をつけられないよう、目立たぬように振る舞い、決して彼らと目を合わせませんでした。
戦後、アウシュビッツはどのように語られたか
死者数
1945年1月27日にアウシュビッツはソ連軍によって解放されました。戦後、ニュルンベルク裁判で、アウシュビッツの死者は400万人と認定され、所長ルドルフ・ヘースは絞首刑にされました。
しかし、ソ連崩壊後に新たな資料が開け放たれ、アウシュビッツでの死者はもっとずっと少ないことが分かりました。今では100~150万人説が有力です。
総勢はあまり変わっていない
ただし、ホロコースト全体で、ユダヤ人の犠牲者は500~600万人説が有力で、これは昔からあまり変わっていません。絶滅収容所はアウシュビッツの他に5か所もありましたし、特殊部隊アインザッツグルッペンや警察、地元傭兵などによる移動抹殺作戦による死者は90~250万人に上ると推定されています。また、ソビエト兵捕虜は劣悪な環境下で人工飢餓による虐殺で、200~300万人が殺されたと見られています。
その他、《夜と霧》政策や《T4》作戦による犠牲者、通常の戦闘による死者をあわせるとナチズムによって命を失った人は、ヒトラーが政権をとってから、たったの12年間で2000万人以上という推計もあります。
終わりに
最初は野次馬根性で行ったことは否めませんが、実際行ってみるとけっこうひるみます。しかし、いまだにここで行われたことに現実味を感じられないでいます。想像をはるかに上回って広い場所で、第Ⅲアウシュビッツ=モノヴィッツは40の下部収容所を傘下に収めていたそうで、なおその広さを想像することができません。
あまりに途方もない規模で行われた犯罪であるため、アウシュビッツやホロコーストの全貌はいまだに解明されていない部分も多くあります。特に、上記したようにモノヴィッツには謎が多いです。色々と興味深い場所なのは確かなので、クラクフを訪れた際には一度見て行かれてはいかがでしょうか?