概要
あまり表に出てこないナチ傀儡国「クロアチア独立国」の、主に強制収容所のシステムの概要を説明します。
《対独協力》
大戦中にナチスドイツの手足となって協力した国々を対独協力国と呼びます。ソ連崩壊後、《対独協力》がこれまで考えられてきた以上に大きな規模で行われていたことがわかってきました。それまで《対独協力》はいわば影の歴史でした。ナチスが崩壊したあと、対独協力国は戦争やユダヤ人大虐殺の責任をすべてナチスやヒトラーやその親衛隊にかぶせようとしてきました。「自分たちも被害者だった」というテーゼを用いて国際社会の目をそらそうとしました。しかも、ほとんどの対独協力国は戦後、ソ連邦の鉄のカーテンの内側へと姿を暗ませます。新しい人民政府は当然自らの罪を認めず、「あれはドイツ人に強要されたことであった」と言い続けました。西側の調査はソ連崩壊後まで立ち入ることができず、《対独協力》は歴史の闇に埋もれて行くのです。
そんな対独協力国の中でも、ひと際異質だったのが、ナチ傀儡『クロアチア独立国(Nezavisna Država Hrvatska=以下NDH)』です。
1941年4月、ドイツ軍をはじめとした枢軸軍によって反独政府が打倒されると、その後釜として据えられたのがNDHです。指導者は弁護士のアンテ・パヴェリッチ博士で、この人物はもともとユーゴスラヴィア連合王国の政権を打倒し、クロアチアを独立させることを目指す政治家でした。彼は危険人物とみなされて国外追放され、イタリアなどに亡命します。いつしか、現状を打開するための手段として選んだのはテロでした。『ウスタシャ(=蜂起する者)』というテロ組織を率い、ハンガリーやイタリアのファシスト政権から支援を受けていました。1920年代には既にセルビア人を絶滅させるための計画を練っていたといわれています。
多様な民族を持つユーゴ
そんなテロ組織の代表者が、いまやもともとのクロアチアの領土に加え、ボスニア全土、セルビアの一部という広大な領土を統治する権限を得ました。国民はクロアチア人ばかりではなく、イスラム教を崇拝するボシュニャク人、セルビア正教会を崇拝するセルビア人、ユダヤ人やロマ人、その他多くの少数民族も混ざっていました。クロアチア人は国民の3分の2に過ぎなかったのです。
クロアチア人とセルビア人は長年の因縁がありました。クロアチア人は、セルビア人主導のユーゴ王国の中で冷遇されている、と長年感じていました。ユーゴ連合王国の中でクロアチア人が限定的ながら自治権をようやく得たのは1939年のことで、これはクロアチア人による怒りが最高潮に高まっていたからです。
とはいえ、クロアチア人とセルビア人には、人種的な違いはほとんどありません。どちらも南方スラヴ人に分類され、ほとんど同じ言語を話します。クロアチア語とセルビア語は、双方ともにラテン文字でもキリル文字でも表記することができます。違いがあるとすれば、それは宗教でした。クロアチア人は伝統的にカトリック教徒が多く、セルビア人はセルビア正教会の信者が多かったのです。よって、両民族の争いは自然と宗教戦争的色合いを強めました。
ウスタシャは棚ボタで転がってきた政権運営を単独ではうまくやれませんでした。党員は数百名にすぎず、主義主張もテロに頼る性格を除けばてんでバラバラでした。そんな中、思想的統一と新たな党員を大量に提供したのが、ユーゴ全土に存在していたカトリック教会です。ウスタシャの思想はカトリック教会の影響を強く受けています。そして真っ先に取りかかった仕事は異教徒の粛清でした。特にターゲットとされたのはセルビア人、ユダヤ人、ロマ人、共産主義者でした。ちなみに、ムスリムは第三帝国の方針に影響されたのか、クロアチアの絶滅政策に巻き込まれることはありませんでした。(イスラム教と第三帝国の黒い関係は、語りだすと膨大になる興味深いトピックスで、ここでは触れません)