洗脳が産まれた日
ロシアで革命が起こると、数百万のロシア人にとって母なる祖国は生き地獄と化した。そんな地獄に苦しむロシア人の中にある生理学者がいた。ペトロヴィッチ・パブロフだ。
彼は消化腺についての研究に対し、1904年にノーベル賞を受けた人物である。その後パブロフは条件反射という先駆的研究の方でも名声を博した。ベルの音を聞かせながら犬に餌を与えるのを繰り返した場合、犬はそのうちベルの音を聞くだけでよだれを垂らすようになる。いまや心理学の学生ならば一年生で習うこの逸話はパブロフが発見したものだが、革命家たちが用いた飢餓によるテロは、この偉大な研究者でさえ苦しめ、彼が実験で使っていた犬は餓死し、パブロフ本人でさえも燃料不足のために一日中ベッドで毛布にくるまっていなければならなかった。よく言われることだが飢餓に追い込まれると人間の思考能力は簡単にゼロになる。パブロフは追い詰められ、死を待つのみとなっていた。
そんな時、どういうわけか運命がむら気を起こした。モスクワがパブロフに召喚状を送ったのだ。ボリシェビキの最重要人物ニコライ・レーニン本人がパブロフに会いたがっているという。レーニンは彼の実験の話を聞いており、強い関心を持っていたのだ。
クレムリンへ連れていかれたパブロフは名誉ある客人として迎えられた。独裁者は実験について詳しく述べるよう求めたが、消化器官や血液循環に関する彼の仕事にはこれっぽっちも興味がないとにべもなく告げた。「私が知りたいのは、あなたが犬を使ってやられた実験です」
パブロフは辛抱強く説明した。レーニンもまた辛抱強く聞いていた。説明が終わると、レーニンは「私の関心は人間です」と言った。しかし、パブロフが行ってきた実験の過程から、人間についていったい何が言えただろう? 彼の実験を人間に当てはめるのは大いに推測の域を出ないものであったし、パブロフ自身も自分が十分な心理学的根拠を持てない質問については答えないようにしていた。彼が自信を持って言えるのは、自分が動物実験をもとに条件反射と抑制について発見したことが、人類にとって恵みになるだろうということだけだったのだ。
レーニンは冷酷であると同時に頑固者でもあった。彼はパブロフを個人的な客人としてクレムリンに引き止めた上で、研究課題を与えたのである。パブロフは自分の研究が、どのようにヒトという種に影響を与え、また与えうるのか正確に事細かに説明するよう求められたのだ。
パブロフはモスクワの要求通りに研究に打ち込んだ。そして、約六〇ページに及ぶ原稿を書き上げレーニンに届けたのだ。独裁者は興奮気味に握手を求め、研究を続けるようにと告げた。「金のことは心配ご無用です」独裁者は言った。「必要なものは何でも用意して差し上げましょう」そして、熱意に満ちた様子でこう続けた。「あなたは我々の革命を救ってくださったのです。あなたの発見のおかげで国際共産主義の未来が保証されたも同然となったのです」
何年か経ってから、「レーニンが何を言っているのか、あの時はわからなかった」とパブロフは語っている。
レーニンは革命を進めるに連れ、新しい理想社会に順応し得る革命的人類を造り出すための自発的協力を得ることが、いかに難しいかを知り、苛立っていた。彼はそうしたことをロシア人に押し付けるテクニックのヒントを、パブロフの研究の中から見出したのである。独裁者は、ロシア人を共産主義に条件付けしようとしたのである。人々の意志が「党」の意志、すなわち自分の意志と同じになるように。
このようにして、人間の行動を外部から強制的に変容させる技法、「行動修正(Behavior Modification)」がソ連において産まれた。以来、様々なテクニックが人々の悲劇と共に開発され、洗練されてきたのである。
洗脳の基礎
旧ロシア帝国の秘密警察「オフラナ」は人々を服従させるのに科学を必要とはしなかった。彼らは疑わしい人物を監獄にぶち込むと、単に自白するか死ぬまで拷問を加えたのである。
革命後、共産主義者たちはオフラナの手法に加えてパブロフらが開発した科学的手法を取り入れた。目的は人間を外部からコントロールすることであり、そのために必要なプロセスは大きく二つに別れ、場合によっては片方だけを用いるし、場合によっては両者を組み合わせて用いる。それらは「抵抗を弱める」プロセス(=条件付け)と、「教化」のプロセスである。
前者は人間を操作するために用いられ、後者は誤った信念(例えば民主主義や人権などといったような)を持つ人間を転向させるために用いられる。コミュニストは極めて冷酷な実際家だ。目的のためにはあらゆる手段を用い、無駄だと思うことは一切しない。重要なのは結果だけなのである。
初期の頃、すなわち革命直後の刑務所やグラーグ(=強制収容所)、精神病院や学校で洗脳の実験と実践が同時に行われた。
飢餓、神経の緊張、脅迫、殴打、その他の暴力、不眠による疲労、時には薬物や催眠術などといった「魔術」まで控えている。
ただし、どのようなやり方であれ、その手法は大きくまた二通りに分かれる。一つは共産党がしばしば「学習」と呼ぶものだ。もう一つは「自白(告白)」である。「学習」と「自白」が洗脳の基礎となっていることは疑いない。「学習」はコミュニストの視点からの政治教育である。中国や北朝鮮では、すべての人が「学習学級」に出席せねばならない。「すべて」というからには無論、大人も子供も、農民も軍人も秘密警察も共産党員もだ。すべて出席を強制される。このようにして党は個性を破壊する。というのも、ただの一人でも個性を持ち続ける者があれば、社会全体にとって危険と見なすからだ。
学習は共産主義文学(例えばゴーゴリのような)の研究で始まる。共産主義者は科学、福音主義、精神医学などを利用するのだが、目的へとこじつけるために必要に応じて新しい事実や新解釈を勝手に付け加え、もっともらしく振る舞おうとする。
そして「生贄」を教化へ条件付けるためにその精神を錯乱させようとするのも重要だ。洗脳とは、精神的に誘惑し、普段なら嫌でたまらないようなことでも受け入れさせてしまうほどに脳を惑わせるシステムとも言える。
洗脳の技法
Ⅰ.作為的飢餓
共産主義は実際に行われるとなると、辞書で定義される言葉とは全く異なることを覚えておかねばならない。共産主義とはまったくの権力システムなのだ。はなから合理的な人類の福祉に貢献するようなものではないのだ。「党」はそれをよく理解しており、従わせるために洗脳を用いねばならないと理解している(冒頭のレーニンとパブロフの逸話に見るように)。「党」は「生贄」が本当に共産主義を信じたりするなど、そんなことはこれっぽっちも期待していない。ただ従えば良い。躾の良い、大人しい党員でさえあれば良いのである。
気をつけておきたいのは、洗脳はただの教育や単純な教化などではない。洗脳は遥かに破壊的なものである。洗脳の初期のテクニックはほとんどロシアの共産主義者たちが考え出した。飢餓や計画的に人を栄養不良に追い込むこともその手法の一つである。西側世界の栄養士の役割はバランスの良い食事表を提供することだが、共産主義社会の栄養士は食べ物の摂取量を政治的思惑に合わせて増減することなのだ。