【閲覧注意】犠牲者100万?!ナチ傀儡『クロアチア独立国』のセルビア・ユダヤ・ロマ人大量虐殺の全貌【バルカンのアウシュビッツ】

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1941年4月にはクロアチア各地でユダヤ人、セルビア人狩りが行われ、各地の収容所へと拘禁されました。そして彼らは下記の処刑場=絶滅収容所へと送られてゆくのです。

ヤドヴノ絶滅収容所(KZ Jadovno)

(41年5~8月)

犠牲者が投げ落とされた自然の穴。

1941年5月、ウスタシャ政権は欧州最初の絶滅収容所を作り上げました。それはヤドヴノ絶滅収容所と呼ばれました。クロアチアの西方、アドリア海に近いこの場所は、ゴスピッチ県警の管轄下の刑務所、『ゴスピッチ収容所』と隣接していました。ゴスピッチ収容所は中継地点としての役割を果たし、収監された者はほとんど確実にヤドヴノ絶滅収容所へと送られ、ほとんど確実に死亡しました。殺し方は、収容所周辺に存在したカルスト地形の洞穴に落とすという方法です。ヤドウノにはゴスピッチ経由で連日千人前後のセルビア人、ユダヤ人が連行されていたといいます。ヤドヴノで殺された人々の数は35000~72000と言われています。

パグ島絶滅収容所(KZ Pag=KZ Slana,Metajna)

(41年6~8月)

ゴスピッチを経由して人々が連行された収容所はヤドヴノだけでなく、アドリア海に浮かぶパグ島も同様でした。41年6月にパグ島にはスラナ・メタイナという二つの収容所が設置され、これらはやはり人を殺すために作られた絶滅収容所でした(スラナは男性収容所、メタイナは女性収容所)。主な殺し方は重りを巻きつけて運河に蹴り落とすという方法が採用され、ほとんどの犠牲者は溺死でした。

8月20日にここは閉鎖され、その後島を占領したイタリア軍が、伝染病蔓延を恐れ死体を焼却しました。生き残った囚人はヤドヴノかヤセノヴァツに送られ、ほとんど死亡したと言われています。

パグ島のパノラマ写真。二つの絶滅収容所があった。

ヤセノヴァツ収容所群(KZ Jasenovac)

(41年8月~)

ヤセノヴァツ収容所跡地に建立された「石の花」のモニュメント

クロアチアで最も有名な絶滅収容所で、1~6の広大な収容所を傘下に収めていました。ヤセノヴァツは首都ザグレブとベオグラードを結ぶ鉄道の沿線のすぐそばにあり、インフラが存在していました。

ヤセノヴァツ収容所跡地にて。当時使われていた貨車。