東ヨーロッパ・ユダヤ史から紐解く、「ユダヤ人が嫌われる理由」

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ポーランドはドイツの傀儡国として独立を取り戻していた。第一次世界大戦で兵力不足に陥ったドイツは、ポーランド人を徴兵して前線に送り込む腹積もりだったが、ロシア革命でロマノフ王朝が崩壊し東部戦線は停戦。続いてドイツも敗戦と革命によって帝政が崩壊し、ポーランドは権力の空白の中で東へと野心を向けた。生まれたばかりのポーランドがまず最初にやったことは、東ガリツィアに生まれた西ウクライナ人民共和国を武力で叩き潰すことだったのだ。

ウクライナ民族主義の勃興とユダヤ人

新しいウクライナ国家は、ポーランド軍に為す術もなく敗れ去る。以降もガリツィアのウクライナ人は独自の国家を持つことを夢に見つつ、地下活動を継続する。

ガリツィアのユダヤ人はといえば、1919年のポーランド軍によるガリツィア占領の後、ウクライナに与したとしてポグロム(殺戮)を受け、夥しい数が殺された。ルヴフではポーランド人によるポグロムで25000人のユダヤ人が住む場所と生活の手段を奪われた。

その後、ポーランドとソ連は国境画定のための戦争を続ける。ソビエト・ポーランド戦争によってポーランド軍の騎兵部隊はトハチェフスキーの赤軍を叩き潰したが、ウクライナの大部分はソビエトに吞み込まれてしまい、ソビエト共和国の一つとなっていた。

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ガリツィアはポーランドが新しい支配者となった。住民の多数を占めるウクライナ人は反発したが、ポーランドの国家権力はこれを弾圧し続ける。ユダヤ人はしばしばその巻き添えを食うこととなった。1929年にはウクライナ民族主義者がイタリアのファシストを真似たウクライナ民族主義者同盟(OUN)を結成。ウクライナ民族の全体主義的一致団結に基づく独立国家の建設を目指す。

1930年代前半はOUNのテロ活動が最も活発化した時期である。OUNのメンバーはルヴフの警察署長を殺害したほか、ポーランドに与する者ならば誰でも殺害した。これに対して軍隊と警察を動員したポーランド側の弾圧も熾烈を極める。

ウクライナの民族主義者たちは、モスクワのロシア人に指導されたソビエト・ウクライナをウクライナ人の国家とは考えなかった。そこではウクライナ民族主義者やウクライナ知識人がOGPU(=ソ連の秘密警察)に弾圧を受け、30年代前半には人為的飢餓テロルによって500万人のウクライナ農民が餓死に追い込まれたのだ。こうした事態は東ガリツィアのウクライナ人の反ソ感情を激化させ、ソ連国家権力に対するテロに走らせることになる。

では、この時代、ユダヤ人がどう振る舞ったかといえば、東ガリツィアのユダヤ人はウクライナ人と同様に、ポーランド国家に抑圧を受ける者たちであり、ユダヤ人とウクライナ人が連帯することも不可能ではないはずだった。しかし、ユダヤ人はひとりポーランド政府と和解しようとしたので、ウクライナ人にとってみればかつてのアレンダールのように、ユダヤ人は結局ポーランドエリートの手先となってウクライナ人を抑圧する存在に映った。貴族にすり寄る卑しいユダヤ人の絵が、大衆の深層意識に思い出されたのだ。

憎悪と世界大戦

東ガリツィアのウクライナ人にとって、ポーランドとソ連の力は圧倒的であった。ポーランドとソ連に対する憎悪を回路に、OUNはナチス・ドイツへと接近する。ナチスはポーランドとソ連を不倶戴天の敵とする唯一の超大国であった。OUNにとってナチス・ドイツこそが唯一の味方に思えたのである。

第二次大戦前夜、OUNの構成員は2万を数えた。東ガリツィアの中心都市ルヴフはドイツ軍によって占領されたが、モロトフ=リッベントロップ協定によってソ連に引き渡され、ソビエト・ウクライナに併合された。東ポーランドでは、短期間のうちにNKVD(ソ連の秘密警察)がポーランド支配階級とウクライナ民族主義者を斬首し、軍の将校を皆殺しにし、国家を解体する。しかしユダヤ人はソビエト支配体制の下で、恩恵を受けることが多かった。ポーランド人もウクライナ人もユダヤ人を決して同胞と扱わなかったが、ソビエト体制ではユダヤ人でも官僚になることができた。ユダヤ人の警察官がポーランド人やウクライナ人を逮捕するという、かつてはありえなかった光景も現実となった。ナチスはボリシェビズムとユダヤ思想を同一とする思想を長らく宣伝していたし、ユダヤ人はソ連国家によってナチから護られたし、これまでに比較すればまともな扱いを受けられたのだ。ソビエトから抑圧を受ける、ポーランド人ウクライナ人双方からユダヤ人は怨まれることになった。

1941年6月22日、独ソ戦が始まるとウクライナは戦場となり、じきにソビエト・ウクライナはドイツ国防軍によって占領され、ナチス親衛隊(SS)によって解体された。東ガリツィアでも赤軍は短期間で撃退され、6月30日にはドイツ国防軍がルヴフに入城する。6月25日、ドイツ軍入城に先立って、ルヴフではウクライナ国家の建設を目指してOUNのメンバーが蜂起したのだが、撤退の局面にあったとはいえソ連軍は十分に強力で、反乱はあっという間に鎮圧されてしまう。加えて、開戦前からNKVDはウクライナ民族主義者の検挙と連行を大規模に行っており、市内の三か所の監獄は一万人以上の人々でパンパンとなっていた。

撤退が決定した後、ルヴフのNKVDは監獄の中の政治犯を皆殺しにするようモスクワから指令を受け、これを実行してしまう。

1941年ルヴフの監獄。NKVDによる大量銃殺

ドイツ軍が入城する直前まで処刑は行われていたらしいが、さすがに死体を片付ける暇はなかった。ドイツ軍が監獄に残された大量の腐乱死体(屍の多くは拷問を受けた形跡があり、肉体を切断され、火で焼かれて黒焦げだった)を見つけた頃には、NKVDや赤軍は撤退を完了しており、市内には無防備なユダヤ人たちが残されていた。