旧セルビア領でNDHの最東部に位置する収容所です。クロアチア領内にありましたが、実質ドイツのゲシュタポの影響下にあったといわれます。旧ユーゴ首都ベオグラードやその周囲に古くから住まうユダヤ人やロマ人やセルビア人が多数連行され、サイミシュテからヤセノヴァツやスタラ・グラディシュカへ送られることも珍しくなかったといわれています。つまり、ここではドイツとクロアチア双方に殺戮の責任があるといって良い筈です。
ここでは10万人もの人々が殺戮されたといわれ、セルビアのユダヤ人の80~90%が殺されたと言われており、死者数が多いことでも有名です。
殺戮と移送
このような、独自の絶滅センターを持ちつつ、ドイツの絶滅作業班と協働してアウシュビッツへの道を開きつつ、クロアチアの大量殺人政策は戦争が終わるまで執拗に続けられました。
また子供を再教育する場として、専用の強制収容所システム(シサク、ヤストレバルスコ、スタラ・グラディシュカなど)が構築され、子供たちは様々な場所へ連行されて行き、多くは二度と帰りませんでした。クロアチア人としての新しい名をもらったり、出生日を変更させられたりして、殺されなかった子供も多くは親もとへ帰れませんでしたし、多くの場合、親は既に殺されていました。また、43年以降はたくさんの子供たちがアウシュビッツへ送られました。
他の対独協力国が日和見的態度で、ソ連が近づくと態度を改める様子が見られたのに対し、クロアチアはあまりそういった態度が見られませんでした。もちろん、クロアチアにも日和見主義者はいたのでしょうが、ホロコーストやセルビア人抹殺政策は、全体としては終戦まで続けられました。これはNDHに実質の主権がなく、ドイツの操り人形であったことを意味します。アンテ・パヴェリッチはヴァチカンの手引きで逃亡に成功。のちにスペインで暗殺されます。
歴史教育
戦後、チトーの社会主義政権時代にはNDHのことを論ずることは禁じられました。このような血塗られた歴史は民族融和を阻害するものと考えられたのです。
この民族浄化の怨念や憎悪や復讐心は連綿受け継がれ、90年代のユーゴ内戦において噴出し、再び血みどろの殺戮が繰り返されました。
現在、クロアチアはナチス時代の罪を矮小化しようと努め、セルビアは逆に誇大に宣伝しようとしており、歴史観が一致した解決を見たとは言えません。うやむやのまま、ウスタシャの蛮行は闇に葬り去られようとしています。恐らく、解決を見ぬまま時代は移り変わって行くのでしょう。