20240630
ヒストリエの12巻読みました。5年ぶりの新刊とのことですが、そんなに経ってたんだなあ。
そして、これがどうやら事実上の最終巻のようですね。作者様のコメント読みましたが、悔しさ無念さが滲み出ていましたね。体調がとにかく悪いようです。高齢でもあります。それでいて最後まで全力でやると。逆に悲痛さを感じましたね。
寄生獣の頃からの大ファンです。自分が出会ったのは小学生でしたが、連載が終わったのは中学生の頃でした。超絶多感な頃に読み耽った、多分初の大人向けの漫画でした。それまでは少年誌のギャグ漫画とかばっかり読んでましたからね。オッパイぽろりばっかりのアホなやつばかりだったから寄生獣は衝撃でしたよ。その深淵にして残酷な世界観は。この世に対する諦観だけでなく、我々はこんな酷薄な世界にいるけれどもそれでも生きて行かねばならないということ。
そんな自分が今43歳なんだから、作者も高齢なのは当然ですよね。高齢になると健康問題も当然出てきます。漫画家はとにかく過酷な仕事のようです。緻密で本気度の高い漫画ほど体に負担が大きいようです。ベルセルクの作者も近頃急逝しましたね。座りっぱなしで下ばかり向いて不眠不休の活動を強いられる上、ストーリー考えたり知識をインプットしたりなどの取材までオールインワンですからね。。心身ともにヤバそうです。
作者はまだ頑張ると仰ってますので最終作と決めてかかるのはアレですが、今回発刊された第12巻ですが、確かに舌を巻くような終わり方でした。物語は完全に未完成で冒頭に過ぎない筈ですが、確かにこのまま終わっても良いと読者として納得できる感じでした。岩明均作品の終わり方として、とてもしっくりくるというか。良い終わりだったなと。
もはや歴史伝記漫画とかじゃなくて、このエウメネスという創作キャラの半生を描いた短編だった…と思えば全然しっくり来ますね。綺麗に完結してる感じしますね。これは下手に続きは描けないんじゃないかと。下手に続きを描いたら、次こんな風に綺麗にまとめるのはいつになるのか。恐らく作者の人生の残り時間では、これは間に合わないだろうと。ちょっと考えれば誰にでもわかると思うし、作者はだからこそ今回12巻をこのように終わらせ、今回のコメント文を出したのでしょう。僕はもう続きが読みたいとは思わないですね。
そんな訳ですが、全12巻もあるんで、寄生獣よりも長いわけでして、読み応えは相当あります。けっこうこの12巻で伏線の回収も急いだ形跡があります。なので、読み終わって「アレは一体なんだったんだよー?!アイツは一体どうなるんだよー?!」みたいなモヤモヤは不思議なほど感じない。全く無いわけじゃないし、謎のままに残された部分もありますが、自分としては今回はかなり綺麗に幕引きをはかれてるな、と感じますね。
ヒトって、50代で命の最後の輝きを爆発させるんでしょうかね。そして60代のどこかで燃え尽きる、燃え尽きたことを認め次のフェーズに移っていくんですかね。女はまた違いそうですが。男も宮崎駿みたいな例外もあると思いますけどね。もっともっと早く諦める人もいるだろうし、そもそも火なんか燃やさずに生きる人もいるでしょうけどね。
才能ある人々が、老いや病で苦しんでる姿を見るのは辛いですね。才能ある人でさえそうなんだから。才能あるからこそなのかもしれないが。12巻読んで大変に感動しましたが、少し時間の経った今感じてるのは例えようもない寂寥感ですね。
20240629
元来ボンボンのワタクシは服が好きでドメブラの気の狂ったような一点ものデザインのお洋服を買って着ていた。学生の頃は。とてつもなく無駄に高かった。本当に今思えば、その金を全て能う限り漏れなく貯金するべきであった。何故しなかったのか?人生で最も後悔しているポイントだったりもする。相当な額になったはず。
まあ、唯一何かあるとすればそれらの経験があればこそ大抵の服は普通に着こなせることだ。色々寄り道したが、クライマーになってしまってからは完全に自然派アウトドアスタイルだ。40男は結局これが良い。
学生の頃は個性を求めて奇をてらったおかしなデザインでも良かったが、社会に出ると逆に個性を殺したほうがモテると気づいた。スーツ着て七三分けにでもしてた方がいいのだ。紋切り型で全然良い。男女はお互いに相手の表面薄皮一枚しか見てないからだ。
30代の頃は完全にその路線で、夏以外は常にジレとジャケットを羽織っていた。職場にたまにやってくる超イケメンの営業さんがいつもビシッと決めていて女達の目線が明らかに変わるのを間近で観察したからでもある。女の好意は時に悲しいほどあからさまだ。なので、私も営業の兄ちゃんにあんさんええスーツ着とるのお、どこに行ったらそんなの仕立てられるんじゃい?と「シンドラーのリスト」のアーモン・ゲートみたいなことを聞いたりもした。
まー、そんな訳でジャケパンとかスーツスタイルだった頃は間違いなく人生で一番モテていた。服だけのせいではないと思うが、仕事も趣味も生命力が全てギラギラと輝いていたし自分に自信もあったから。
40間近になるとジャケパンスタイルも限界が来た。別に40オーバーがジャケパンでもいいじゃねえか?当時はそう思ったものだが悲しいかな、流行というものがある。オーバーシルエットがもはや制御できないレベルで大流行しており、オッサンもブカブカのビッグTシャツでも着てなきゃならない世界へ突入。これには難儀した。これまでかなりの額つぎ込んできたスーツやジャケットの類が概ね全て着れなくなったのだ。つうか、よくそんな金があったもんだ。稼いでたんだなあ自分。。
奇しくも38歳の頃にクライミングをはじめ、その深遠な世界に人生を捧げることになるのだが、するとガリガリ体型だったのがいい感じに筋肉体型になってきてファッションも根底から変わることになった。緩めのTシャツとハーパンでも履いてればそれが一番絵になるというか、自然なのである。カッコつけ過ぎてないというか、痛々しくないというか←オッサンはとにかく痛々しいと思われないためにエネルギーを全フリしなければならない
同じサイズの違う色のTシャツとパンツを何着か常備していれば、大抵事足りる。夏は特に楽。あとは冷え過ぎた映画館対策に羽織るシャツでもあれば十分だ。冬はこれに何枚か重ね着するだけ。大抵ユニクロのヒートテックで問題ない。アウターはダウンジャケットでどこでもOK。これもアウトドアブランドが頑丈かつ高額すぎないので実用的だ。
女にも腕が太いのね♡足細いですね♡背中がすごいですね♡としょっちゅう言われるようになったので、後は気にするべきは髪型だけとなった。これも千円カットで十分何とかなる世界なんで、ファッションは金などかけなくてもいいのだ。
逆に、たまに女と会う時とかクローゼットで眠っているジャケットを取り出して羽織ったりもするが、違和感しかない。変である。若作りしてるように見える。痛々しいのだ。痛々しいのが一番悪いので避けなければならない。ただ、なぜ痛々しいと感じるのかはよくわからない。ジャケパンうまく着る40オーバー50オーバーはいくらでもいるはずなのにね。。若い頃の記憶がそう思わせるのかもしれない。
なので、結局ゆるっとだらっとシャツとパンツでも着てるのが一番楽だしそれが自然なんだろうかね。とはいえ、その緩いシャツやハーパンにしてもそこそここだわりを持ってブツを選んでるので、自然なようで実は計算されていたりもする。緩いとはいうが無関心とは違うのだ。
つうか、そもそも俺は何で今更そんなファッションとか気にしてるんだよと思うわけですよ。もう一年もセックスしてないし女に触れてすらいないのに。もう枯れ果てたおじさんなのにそんなもん気にしてどうすんだと。まだこれから何かあるんじゃないかと期待でもしてるのか?恥ずかしいおっさんだ。とはいえ、そう考えると色々違和感。別にモテたくてしてるのとは絶対違うなと。そこが若い頃と違うなと。
結局、自分が自分を好きでいる為に必要なものかもしれないですね。フッションは。かっこいい自分でいたいから。自分が自分をかっこいいと思えないと何だか嫌というか。そういうものかもしれないですね。オッサンのファッション。
20240628
どれほど頑張ってみたところで確実に言えるのは、男としてのピークは過ぎてしまったということだ。感傷とかネガティブ思考とかではなく普通にごく一般的な事実として、そして何より実感として。
この手の話を若い人にすると、そんなことはないとかマイナス思考ですよとか必ず言われるので誰にも言わない。言えなくなった。言っても変に前向きな言葉に変換されて慰められても余計みじめなんで。じゃあ何を期待するのかというと、そうだよねわかるよ俺もだよ、と同年代の人に言ってもらいたいだけだから。つまり、若い人に愚痴を言うな。こうして男達が何も語らず一人で死んで行くの図ができあがるのです。
びっくりするほど女性とは縁がなくなった。俺は43歳だけど、41まではまあまあモテてたと思う。しかし42から雲行きが怪しくなり43になると完全に終了のゴングが鳴ったかんじだ。30代の頃は下にも上にも売り手市場のゴールデンエイジであったが、同一人物の筈なのだが歳を重ねたというただそれだけで全く女性には相手にされなくなった。もはや説明の必要もない。当たり前だ。40オーバーのオッサンをわざわざ選ぶ人がいるはずもないのだ。
ただ、自分自身の問題に加え、世の中の事情も変化に次ぐ変化を繰り返しておりそれは肌で感じている。女は結局のところ身近な男達の中でマシそうな物件を選んで恋愛するのだが、これまでは出会いのない女性は比較的ダメンズに引っかかる男も多かった訳である。身近にそもそも男がいない人とかは。
しかし、今は女からしてみればマッチングアプリ、ホスト、地下アイドル、SNSなどで雲上クラスの超イケメンと簡単に繋がれるし、何なら海老蔵クラスがインスタでネット軟派してるという話なんですよ。まあ勝てる訳ないですよね。凡人は文字通り歯が立たず!クリリンではサイヤ人に勝てまへん。そういう事情もある。自分の劣化と、周囲が急にレベルアップしたこと。このダブルパンチがここ2年ほどで急にやってきた感じ。共感してくれる人がいるといいんだけど笑
ルッキズムの深刻化もかなり大きい。どんな一般人でもインスタ使えば自分の顔写真を全世界に公開できるし、顔が良ければ大幅に得をするという事実に皆が味をしめてしまった。顔が良ければインスタで影響力が増し、商売もうまく行きやすく、皆にちやほやされるので、今や顔の良し悪しは権威や権力の重要な要素となった。
権力者を愛すのは女の本能であるから、もはや顔は性欲を左右する要素以外に、他者にマウントを取るための兵器にまで進化した印象だ。
特に女は自分のカレや旦那がイケメンだと相当に自分の立場が改善するようで、我慢を絶対せずに遠慮なく自慢する。特に白人や韓国人の彼氏ができたら自慢せずにいられないようである。単に人種の違いだとか整形だとかはもはや重要事ではなく、写真一枚ぺらっと見せてみんなに自慢できればそれで満足のようである。アホだがこれが今の偽りのない人間の姿だ。
また、スポーツしてても若い男達には到底叶わない。フィジカルの問題もあるけど、技術を修練するにしても残り時間の短い私よりも、若い人達の方が時間だって有利なんだから当然である。文句つけることさえできない。若い頃に時間を無駄にしたのが悪いんだろ?とハナで笑われちゃうよ。とても人には話せない。なので、今からどんなに頑張っても決して死を覆せないのと同様、若い人には叶わない。
時間的にも大幅に不利。家族の生活に責任を持ってあくせく働いてる俺と、独身で自分の時間と金を全部自分に注げる若者とでは同じリングに立っているとは言えない。しかし、スポーツは結果が全て。大谷がいかに人格者であろうと野球を抜きにすれば誰も見向きもしないであろう。まあ、この例えが全て物語るが当然すぎる。何に文句をつけてるのか自分でもわからなくなってくる。もはや、文句ですらないなこれ
冒頭に戻るけど、要するに時間は過ぎ去ってしまった。既に。戻ってくることはない。今更何をやり直すこともできない。ただピークは過ぎた。それだけである。今輝いてる人達もいずれピークアウトする。それだけである。
他人と比較すると人間は不幸だ。金も時間も見た目も体力も何もかも、上には上がいて自分は決して一番にはなれない。比べるべきはありがち結論で申し訳ないけど過去の自分である。過去の自分を超えられればピークが過ぎたなあ、と暗い気持ちになることもないんじゃないかと思われる。でもつい思ってしまうものだ。わかっていてもついよぎってしまうものである。
いま輝く若者達全てが羨ましい、と。つうか50代になると今の自分が羨ましくなってると思うんで、長生きするほどに救いがないが我が子がいる俺はまだマシ。子供いなかったら老年期の絶望に多分耐えられない。老年男性が最も多く自殺する。これが世界標準。我が子は大事に丁寧に育てる。これが当然。もう一人欲しかったなあ
20240626
昨日も先週と同じ岩場に行きましたが、もっともっと岩が濡れておりたったさっきスコールでも降りましたか?と聞きたくなるほどびしょ濡れだった。しかも、拭いても拭いても岩肌全体が蛇口になったみたいに次から次へとポタポタ染み出してくる。かつてないほどであった。これはさすがにあかんすわ。
話にならないがせっかく来たんだからと四時間ばかりは頑張った。拭いては磨き登りまた染み出してまた拭いて磨いてみたいな。めちゃくちゃ自然を愛する上裸お掃除おじさんと化しており通行人も呆然と見ていたが、こんな真似はするべきではないと先週も感じていた筈なのにね。バカとしか言いようがないです。我ながら呆れる。
何か得た物は?といえば、ガタガタに酷使して疲れ切った肉体でしょうかね。栄養とって、筋肉がまた新しく生えてくるんかな?と思わねば何一つ希望がないです。流石に7月8月は本当に諦めないと。岩に登れないなんて退屈だなあ
ジムは飽きた…あんな平坦な場所で安全にマットが敷き詰められていて、しょーもない、などと言う気はないですがちらと感じることはある。知覚のレベルで。認知して意識して思考する前の段階で。
となると、多分この夏はあんまり登らずに体を休めて回復に努めるべきなんか?と思えてきた。左肩の故障がジワジワ痛くなってきてこのままだと治らなそうなんで休むのが良さそう。ようやくクライミング漬けの痛々しい日々に一息つけるのかよ。と言いつつまだ諦めきれてない自分がいたりもするんだけど…
岩に行くようになって異常に体が頑健になった感じはありますね。心肺機能がますます強くなったと言うか。腰痛もあまり感じなくなりました。ボディに筋肉がついて自重に苦しめられることが減った感じ。この歳でも体は進歩するんだねえ。。
まあ、んなことはいいとして今年の夏はクライミングはあんまりできないかなと。その分エネルギーを注ぐ対象が枠が一個増える感じなので、何かをやろうと思います!何かを!
子供の頃の習慣だと思いますが、夏休みは本ばかり読んでいたなあ、と。色々な本を。沢山読んでいた。その名残か、夏になると本を読みたくなるんすよね。冷房のきいた静かな部屋で、落ち着いた気持ちでゆっくりと。読書するかあ読書
20240622
最近の男女論争で重要な問題提起となる漫画かと思うのでお勧めしたいのだが「乙嫁語り」という漫画だ。現在14冊コミックが刊行されておりなおも連載継続中だ(とはいえ作者体調不良で休載中)。
端的に申し上げると、19世紀の中央アジアの結婚観を美しい絵画の如きイラストを添えて読者に提示するものだ。
ワタシが勧めるからといって大量銃殺刑も即決裁判も強制収容所も秘密警察も出てこないので安心して読んでほしい。全年齢適用可。東西南北老若男女穏やかに平和な気持ちで読むことができる素晴らしい作品だ。
中央アジアといってもトルキスタンが舞台らしい。Wikipediaによれば
現在のウズベキスタン,キルギス(キルギスタン),トルクメニスタン,タジキスタン各共和国とカザフスタン共和国南縁,中国領の新疆ウイグル(維吾爾)自治区南部の一帯を指す。
とのことである。わかったようなわからないような。かなり広大な地域を指す用語らしいのはわかるが。
まあなんとなくわかる通りだが、これらの地域はイスラム教スンニ派が宗教である。日本の国とは異なるが道徳教育は宗教教育とセットであるのが普通だ。結婚観にもイスラム教の影響が色濃い。とはいえ、トラディッショナルな部族社会の考え方、物の捉え方も大きく影響しているだろう。
はっきり申し上げると、これぞ男尊女卑と呼ぶべき描写のオンパレードだ。西側のスタンダードが忌み嫌う全てがここにあると言って過言ではない。
子供の結婚相手は必ず父親が決める。父親にとってそれは重要な役割なのだ。父親は各家庭内において金日成並の権力者で基本誰も逆らえない。女は父親の命令には絶対に逆らえない(絶対に、絶対に逆らえない!)。
血縁は何よりも重要で結婚相手も近い氏族から選ぶのが普通だ。戦や略奪が重要な収入源であった草原の民の価値観である。敵も味方も血が決めるといって過言ではない。それゆえ、子供が誰と結婚するかは一族の命運を分ける重大事項で、必然政略結婚的色合いを帯びる。その辺の野良犬みたいに出会った相手と適当に契るなどは決して許されない。つまり恋愛結婚は表向きあり得ないのだ。
花嫁は幼い頃からコツコツと刺繍を施した大量の被服、布を用意する。尋常でない細かい施しがなされた布細工は工芸品と呼ぶに相応しいものだ。子供の頃から暇さえあれば布をつついて、いずれ自分が花嫁として他家に嫁ぐことを想定して生きて行く。刺繍は魔除けとなるだけでなく、花嫁としての実力を誇示するものである。
結婚しない人生など女にはありえないのだ。選択肢はそこにはなく、結婚しなかった女はただそれだけでアウトサイダーとなる厳しい社会である。また、大量の家具を花嫁道具として持ち込むためそれなりの資産を持つ家の女でなければなかなか結婚相手も見つからない。顔だけで良い日本とは前提からして全く異質のものである。
女にそれだけ用意させるのだから男も当然厳しい試練が待っている。ある意味女以上だ。現代日本は既に廃れたが、結納金である。多額の金銀財宝をお嫁さん一族に提供せねばならない。もしそれができないなら代わりになるような資産を提供せねばならない。また、盛大かつ豪華絢爛な結婚式、披露宴を開催せねばならない。それらは1ヶ月以上続くこともある宴である。道行くあらゆる人々を宴に招き、豪華なご飯を食べて頂く。沢山の人々に祝ってもらうことが幸せ、参列者が多いことが一族の力を示すことにもなるのだ。力のある一族には様々な人が関わりを待ちたがり、子供達をお嫁にお婿にどうですかとますます勢力が拡大してゆく訳である。
…つまり相当な金持ちでなければ男女共に結婚できないのだ。しかもそれはあくまで親や一族の力であって、個人が成り上がるなど普通あり得ない社会である。親ガチャ失敗したら一生涯異性と関わりを持つことができない。マジで今のスタンダードとは根底から違う異世界である。
もちろん、それはただ生きるだけでも多大な労力を要する過酷な草原地帯、山岳地帯で生きる人々の価値観である。生きるために合理的な手段を突き詰めた結果、結婚も一族が存続するために最も合理的な形態を必要としたのである。なので、西側スタンダードに首まで浸かった我々がこれらを野蛮と断じるなどお門違いもいいところ。むしろ恥ずべき行為と言えるだろう。
注目したいのは、このような「男尊女卑」社会で女が暗い顔して下向いて窒息しそうになりながら懸命に生きているのか?と言われると、この漫画ではだがそうは描かれていない。女は自分達の立場を疑問も持たずに受け入れているし、その上で幸せになるためにどうすべきかを理解し必要な行動をとっている。
あらゆることを我慢しているのだろうが、節度を持つとはそういうことである。人間は欲望を我慢して社会に順応する、そんな生き物である。欲望のままに我慢しないのは畜生と同じである。
父親が全てを決めているのだろうが、可愛い娘を適当に放り投げる父親などいるはずもなく、手厚い庇護の元割と甘やかされて楽に生きているとも言える。
少女ともいえる時代に顔も知らぬ年寄りに嫁ぐこともあり、子供を何人も十人も産む必要があった。これは酷いことだが、子供が病気になってすぐ死ぬこの時代において一族の血を絶やさぬようにするにはこうするしかなかったのは理解できる。子供の多い社会は活気のある社会ともいえる。子供がいなくなった我が国とは違う幸せがここにはあったと思われる。
男も同じだ。金がなくて結婚できないなら金を稼ぐしかないのだ。また、外敵と文字通り闘う必要のある男は物理的に強い必要があった。弓の腕を磨き、筋肉をつけ、頑強に動き回る体力が必要であった。一族を守るために最前線に立ち命を張る必要があった。一年中休みなく働き、妻のご機嫌をガッツリとり、病気にもならず沢山の子供を育てるだけの収入を確保する必要があった。男にとってもかなり厳しい社会だと言える。
このような社会においては、子供はたくさん産まれていたのである。そして老人は一族のご意見番として大事にされていた。子供も老人も大切に扱われていたのである。この社会を古いと断じ切り捨てた我々は近い将来子が産まれず絶滅すると言われている。どちらかが正しかったのかはもはやわからない。
不幸なことに、この中央アジアの近代化の波はロシア帝国であり、ソビエト連邦であった。流刑地として扱われ、文化は放棄され、その土地の人々は野蛮と断罪され置き去りにされた。NKVD、有刺鉄線、鉄格子、水冷式機関銃…筆舌に尽くしがたい暴力によって屈従を余儀なくされた。
日本はどうだといえば、はっきり言えばついこないだまでこの部族社会に近い様相であった。それが破壊されたのはここ40年ぐらいのものではなかろうか?
日本にはロシアは来なかったが、西側スタンダードは無警戒に流入し続けた。その結果が今だ。若者は欲望を優先し滅多に結婚しなくなった。ディストピア映画の荒唐無稽な設定並に子供が産まれず、民族は絶滅を危惧されるまでになった。たったの数十年で数千年続いていたと思われる人間の営みが崩壊してしまったのだ。
もっといえば、乙嫁語りのような結婚観はまだ根強く生きていて、西側スタンダードにもなりきれぬ日本人は価値観の迷路にハマっていると言ってもいいだろう。古臭い価値観を捨てきれぬまま新しい価値観にも迎合していいとこ取りをしようとし、そしてそれに失敗している。
その総括を欠いたまま少子化解消を無闇に叫んでも無益であろう。男女平等が何なのか、西側スタンダードの色眼鏡を外してよく考えるべきだろう。偏見に囚われることなく。(乙嫁語りの歴史考証は概ね正しい前提でこの記事を書いています。ワタシが無学で反論できるような材料を持たずなので悪しからず)
20240620
Xの男女論争は見ていて楽しいねえ。色々な過激思想が日々戦われている。しかし、大抵はノイジーマイノリティというやつだと思うが。
Xはアウトサイダーが流れ着く貧民窟だが、いまやそこはアウトサイダーの理想郷にまで成長した。普通の人は全く目立たずいるのかいないのかもわからない。水のないところに魚がいないのと同様、常識人はXにはいない。
顔も名前も隠せるのでスネに傷がある者ほど目立ち、大きな声で喚き立てる。心の弱い者は煽り立てられ急き立てられるように我も我もと奇妙かつ焼き直しの主張を繰り返す。
何も言わず、主張せず見てるだけという人のほうが遥かに多いだろう。泣けばいいのか笑えばいいのか誰にもわからない。不思議な世界だ。かつての2ちゃんねるのほうが遥かに常識的でまともで正常な世界であった。いま思えばだが。
かつての炎上と違うのは、炎上なら時間が過ぎれば収まるし、燃えてない時間も多かったがいまや有象無象が放火犯と化して日常的に火を放ち、鎮火などさせないと常にナパーム弾を撒き散らしていることだ。
100年火を絶やしたことのない熟成タレの名店の如き職人芸。もはやインフルエンサーと言うより炎上芸人と読んだほうが幾分真実を突いているだろう。よく飽きずに続けられるなあと思うが結局のところインプレ数に応じた小銭が手に入る仕組みらしく、金になるなら何でもやるのが卑しい人間の唯一的を得た回路であるから、これさえもはや何の不思議もない。シンプルかつ強力だ。今後も火が絶えることはないのであろう。
そんなカオス極まるXの中でも、とりわけ熱く燃え上がるトピックスが男女論争だ。女叩き、弱男、LGBTなど無限に話題が生まれそれぞれで大火事が起きている。大道芸人が闊歩するドヤ街みたいな空気だが、街に例えれば歌舞伎町のような雰囲気だ。夜職がやたらと暑苦しく主張を繰り返しているのでそう感じる。
去年や今年辺りから、夜職信仰なんて言葉が懸念されているらしい。風俗嬢やキャバ嬢がやたらに前に出てきて何かを叫ぶのだ。と言っても大抵は客の悪口で、キモおぢの生態を赤裸々に晒して道行く人々の共感を得るスタイル。作り物の顔を惜しげもなく晒し、場合によっては露出もするのでそりゃあ大抵の人は目に入ったら足を止めるであろう。んで、耳に入ってくる言葉はただの悪口で知性のカケラもない。ないのだが女を叩きたい弱男とスケベなおっさんと夜職仲間が寄り集まり仲良く乱闘だ。
見る価値はないのだがあまりにもサジェストされるのでそればかり見る羽目になる。これはXやインスタのアルゴリズムの仕様で、嫌でも閲覧したらその履歴からサジェストしてくるので似たようなポストがどんどん凸してくる。こちらが嫌な気持ちになってるなど感情をAIは理解できないのでそうなる。ブロックしても次から次へと浮き出てくる泥濘の泡の如しでキリがない。なのでもう諦めるしかない。
夜職がやたらに前に出るようになった原因は恐らくだがルッキズムの深刻化だ。より一層深刻になった。ここ2年ほどは本当にそう感じる。マッチングアプリの普及も大きいだろう。多くの人はマッチングアプリがどんなものか経験して知っているだろうが、あそこは顔写真が全てという世界だ。
ナチュラルに美形な人が有利なのだろうが、盛った写真が撮れれば誰でもそこで覇者となれる。まあ、もちろんそれ以外の方法がほぼないので顔が悪い者は過酷な戦いを強いられる。顔が全てであるといまや誰もが感じている。どんな手段を使ってでも顔をよく見せれば何とかなる、そのような経験則を適齢期の日本国民全てが体感してしまったのだ。
その点夜職は顔をよく見せることに関してはプロだ。それで飯を食ってるんだから筋金入りである。作り物だろうが加工だろうが手段は問われない。そんなわけで夜職の表面上の見た目の良さが信仰に繋がるものと思われる。ルッキズムが極まった結果、売春婦が息を吹き返したのだ。これは興味深いことだ。
見た目が良ければ大抵のことは免罪され、周囲が甘やかしてくれるだけでなく、勝手に憧れて信者にまでなってくれる。現代社会は残念ながらそうなった。とりわけXではそれがそのまま収益となるので結果が分かりやすく出る。もうやめられるわけないのだ。
自分の主張を通したければ見目麗しい顔写真を用意することだ。それが偽物だろうと他人の顔だろうと誰も構わないので小学校低学年の跳び箱みたいに敷居も低い。誰でもやれてしまう。炎上芸人になりたければ↑をそっくり真似すれば誰でもやれてしまう。そんなものをやりたければだが。
もちろん社会が長らく夜職を必要悪としてしか扱わず、表舞台には決して出さず、棄民として放置してきた反動もおおいにあるだろう。しかし金でおっさんのアレをしゃぶる仕事があまり前に出てきて楽しそうにされても子供に悪影響になるので困ったものである。自分の子供がそこに憧れや敷居の低さを感じて似たようなことをやろうとするのではと、親なら誰でも心配する。自分が男親ならそんなことは心配しなかったと思うけど、大事な一人娘はなるべく不浄な世界から離しておきたい。
男女平等論も、ここに来てカオスが極まった感がある。平等になって行く過渡期にある筈なのだが、女側にも守旧派というものがいてこれまでの既得権益を守ろうと死ぬ思いで闘争しているようである。
これまで通り力仕事はしたくないし飯は奢ってもらいたいし判断は男任せにしておきたいし何かあっても男のせいにしておきたいのだ。俺の観ずるところ、40オーバーのオバサンに非常に多い印象である。歳を重ねた者ほどかつての価値観に固執する印象だ。まあ俺もそうだけど。
厄介なのは、既得権益を守るだけなら理解されるがそれに飽き足らず自分らが有利になるならそこは新しい価値観に迎合することだ。つまり、いまや家事や育児は男もするのが当然なのだ。これは男からすれば女の雑なダブルスタンダードの結果で既得権益を脅かされる訳で当然反転攻勢が勃発。女叩きの大部分はコレだ。
敗北を受け入れ育児も家事も仕事もATMも全部やってる弱い男も多い(いや、強いのか)。敗北を受け入れた理由はシンプルで、面倒だからだ。また、男は女を守ってやらねばと教育されているので悪気もない。(ただし、女は男にかける情は持たず容赦もない)
言うまでもなく最近の潮流は男の守旧派に大幅に不利で、男は既得権益を女側に譲らねばならなくなったし、昔みたく仕事に集中なんてできなくなった。その結果金が足りず女も働かねばならなくなり、これは主婦で楽していたかった女からすれば大幅な譲歩となり、やはり戦いが勃発する。男が譲った結果女はより猛り狂い、誰が敵かさえも見失い修羅のように戦い続けるのだ。その無益な鉄火場もXで沢山観ることができる。黙ってROMるのが正解だ。
20240618
昨日はお初のエリアに行きました。またどうでもいい話でスイマセン。午後から仕事だったのでバタバタでしたけど。いつも同じ岩場ばかりだったので初エリアはテンション上がりますね。上がりました。大変楽しかった。
岩もびちょ濡れで時間も限られており完全アウェーでしたが、今日が雨だから仕方ない。一人で黙々とある二段のラインを練習しました。過去1楽しかった。乾いた季節に再トライしたい。
染み出しで、拭いても磨いてもどこからか水が滴ってきて嫌になったけど、これもアウトドアの醍醐味かな。蚊にも刺されたけど。しょうがねえわ。蚊も生きてるんだからな…食っていかにゃならんやろ。
駐車場から岩場まで30分ぐらい歩くのですが、バスも出ているので乗る気マンマンだったけど、本数が少ないので結局歩きました。30分。20キロぐらいの装備を背負って急勾配の坂道を。アップだと思えば耐えられました。
帰りは全身ヨレヨレなので絶対バスに乗る気でしたけど、財布を車に忘れて乗れず仕方ねえなあと言いながら歩きました。また同じ道のりを30分。全然歩けました。別に息もきれないし。普段からハードに運動してるし心肺機能は悪くないようです。アドレナリン出まくってたからだと思うけど。
で、帰って子供を迎えに行ってすぐに仕事です。普通にこなしました。最近は週6で働いてますが今日は休みなので、大雨ですが近所の温泉にでも行こうと思います。14時からは子供のお世話です。それはそれで癒される時間。
何が言いたいかというと、仕事はアレでも健康なら人は幸せをどこにでも見つけられるってことです。健康。頑健で健全な肉体。ちょっとやそっとじゃ疲れない体。
金は節約すりゃあなんとかなる!港区女子気取りの変な女に奢ったりしなけりゃ全然もつ。ブランドものとか意味なく買わなければ。大丈夫。ソシャゲの課金もここ数年は一円も使ってないし、たまに買う本をゆっくり読んでるだけで金はほとんど使わない。服は体鍛えてるとシャツスタイルで一年中いける。散髪は近所の大衆向けのバーバー。別にモテようとか考えなければそれでいい。
ミニマリストを自らインスタで名乗るヤツは嫌いだが、俺は結構ミニマリストだと思う。車は旧式の小型のフォルクスワーゲン。飲む打つ買うは一つもやらない。使ってるお金は食費と税金が大部分だ。部屋に家具はほとんどない。
貧乏人でもミニマムを心がければ何とかなる。子供は一人で抑えたのでこの子だけ何とか頑張るが、この子が家を出ていけばこの土地は売っぱらってど田舎の空き家でも買ってのんびり暮らしたい。奥多摩や神奈川西部が気に入っている。いいとこだ。
20240615
最近はバルクアップを心がけてるが食べても食べても体重が増えない。むしろ減ってる。これが糖尿病ならかなり怖いことだが、自分は40代としてはかなり運動してるほうなので心配はしていない。
心当たりはありまくりだ。先月から雨天以外はほぼ毎週岩行ってるから。岩は相当消耗する。運転からして最近は節約考えて一般道使ってるので往復4時間は運転する。
その後はマット大量に担いで山に入り、岩までアプローチ。岩では文字通り死闘。指皮はヤスリで削ったみたいにズタボロになりベロンベロンめくれて穴だらけになる。全身はバキバキになるまで登る。首が痛くて上向けなくなったり深く呼吸すると背中が痛みだす。指の関節が熱傷の後遺症みたく全く曲がらなくなる。それらが撤収の合図だ。再び20〜30kgぐらいの装備を担いで急斜面の山道を戻る。登り坂がとにかく辛い。腰が曲がりそうだがどうにか車まで戻ってまた2時間運転。帰ったらシャワー浴びて即座に子供のお迎え。宿題見てその後はだいたい飯当番なのでお料理。肉や魚料理をたっぷり作る。
次の日の朝は体が硬い膜で覆われたみたいに感じる。バキバキ。全く動かせない。動きたくない。このまま固まって死んじまいたいぐらいの疲労感。でも休みは今週一なんで仕事行く。仕事はアクティブレストだと思って割り切っている。その2日後にはまたジムでオーバーハングした壁を登りこむ。こうして文字に起こすと故障するのは当然だなー。
最近はあまりに体重が増えてくれないのでラーメンを解禁した。家の近くの家系ラーメンがタイプだ。たったの一杯で体重が一時的に2キロ増える。更にそれに無料ライスまで付けるようになった。帰り道でチョコモナカジャンボも食している。
最近までそんな食事は考えたことすらなかったが、それでも体重はまた元に戻って行く。今朝は61.6だ。増えない。体重が増えてないってことは筋肉も増えてないってことなんでトレーニングしても報われない。とりあえず増やさないといかん。その後脂肪を落として痩せるのだ。それがベストな形。しかしなかなか難しい。
一時期63.5まで増量したが、岩に通うようになってまた痩せてしまった。結果は出てるので気にしてないが、ジムに行く意味が単なるレクリエーション?お楽しみ?になってるのはツラい。つーか岩に比べるとジム活は児戯に等しく全く楽しめない。いっそ休んだほうがいいかもね。体を休めて岩で全力投球が良いのかもしれない。(とか言ってると雨降ったりするんで悩ましい)
人間ドックでは洞性徐脈を指摘された。医師はいわゆるスポーツマンハートだろうと説明してくれた。日頃しっかり運動してる人に多いそうである。だいたい無害。
この生活が何歳までやれるのかが1番の気掛かりだ。20代30代の頃は10年後のことを想像したこともする必要も感じなかったが、最近はよく考えるしリアルに想像もつく。10年後なんて大して先の話でもない。
まーそんな感じですが、マッドマックスの新作は何だかもう一度観たい気もするので今度は日本語吹替で観ようかな。今回もモノクロバージョンが既に完成しており、まもなくリリースされるようです!モノクロバージョン良いよ。劇場でフュリオサ観てから怒りのデスロードも2回ぐらい観たけどやっぱりこれは神作っすなあ。。映画好きなら絶対観ないと死ねないヤツですな。。そんなこんなで不思議とフュリオサも観たくなってしまったのです。
20240612
昨日はまた外岩でボルダリングしてきました。去年の秋ごろから取り組んでたラインと、その派生ラインを無事登りました。グレードとしては初段+ぐらいになります。初段と二段の間ぐらいですね。相当苦戦しましたけど、思ったより早く登れました。実際は年末の故障があったので、真剣に取り組んでたのは4月以降だったので。しょうみ2ヶ月弱ぐらいかなあ
登る時の動画は必ず撮影してますが、とんでもない巨岩を根っこから登って行く大迫力の映像が撮れました。完登した瞬間は思わず声が出て、年甲斐もなく両手を突き上げて喜びました。仲間も手を叩いて喜んでくれました。生きていると感じましたね。。。この喜びの大きさは他で例えられるようなものではありません。外野には絶対わからないと思う。人生で本当に大切なものはお金では買えないんですよ。
その後は急いで帰って子供をお迎えし晩飯を作って早めに寝て、今日は朝から仕事でしたがめちゃくちゃ疲れ残ってて眠くて眠くて仕方がない。今これ書いてるの19時くらいだけど、多分15分後ぐらいには寝てると思います。
仕事は大して順調ではなく、稼ぎは減ってるし自分の時間も減ってるんだけど、そんな中週に一度きりの休みで天候にも悩まされながらも梅雨入り前に決め切った。やっぱり俺ってまあまあできるやつ。エネルギー注いでることはだいたい上手くやれるし運も向いてきて結果も出せる。問題は、気まぐれな性格でエネルギー注ぐ対象がコロコロ変わることかな。
特に、どうしても仕事には熱意が向かないですね。適当にやり過ごして最低限稼ぐのスタイルがストレスも少ないし健康にも良いみたいです。
とはいえ、いつも全力で何かに打ち込んではいるので、家に帰って風呂と飯が終わるともう疲れて疲れて仕方ない。眠くて眠くて。本を読むのが一番難しいワークとなっております。読書進まんねーー。。あーもうだめだ、眠ります。
20240609
大昔に読んだアゴタ・クリストフの「悪童日記」の続編、「ふたりの証拠」を読了しました。短く読みやすい小説で、読もうと思えばたぶん1日で読めると思います。
大変に面白かったです。即座に続編の「第三の嘘」を購入し読み始めました。コーマック・マッカーシーの遺作「通り過ぎゆく者」も読み始めたので、どっちもだいぶ時間かかると思いますが。
この小説の背景には、戦争と革命で国を追われたアゴタ・クリストフ本人の暗い半生が下地にあるようです。
著者はハンガリーのある村で子ども時代を過ごしたが、21歳で夫と子どもと共に亡命しスイスへ落ち延び、その後は時計工場、歯科助手などしながら生計を立てていました。
作者が51歳の頃、突如フランス語で書かれた「悪童日記」を発表し文壇デビュー(フランス語で書いたのは芸術的意味など全くなしで、本をなるべく沢山売って生計の足しにする為だったとのこと。プロはみんなそうなのかもね)。これはナチ占領下のハンガリーの寒村で、あらゆる悪事に手を染めながらもたくましく生きる双子のお話。とはいえ、大変に繊細で美しい小説で、デカダンな雰囲気と共にある種独特の空気を放つ小説。大変にユニークな内容。似た小説挙げろと言われるとあまり思い浮かばないけど「ミノタウロス」の佐藤亜紀氏は影響を受けていると思われます。
「悪童日記」の最後でずっと一緒だった双子は離別を選択し、1人は村に残り、1人は国境を越え亡命。「ふたりの証拠」では村に残った片割れリュカ《LUCAS》が主人公。「第三の嘘」はもう片方の双子クラウス《CLAUS》が55歳になって故郷の村に戻ってくる話だ。↑のようにリュカとクラウスは綴りを入れ替えただけ。
「ふたりの証拠」はよく考えるとタイトルの通りであるが、双子がそもそも本当に双子だったのか?という部分がミステリとなっている。
とはいえ、ミステリならば謎解きがあったりもするけどこれはそんなのは無しでほったらかしにされて終わり。読者の解釈に任すという構図だと思うが、片方がもう1人いると妄想してただけじゃないの?と最後の最後に唐突にぶちこんでくるので衝撃である。最初から最後まで、この主人公がひたすらに凄絶な孤独の中でもがいていた話なのかと思うと本当に救いのないお話だ。
その点のミステリは「第三の嘘」でそれなりに明らかにされるんだろうけど、それ抜きでも「ふたりの証拠」は興味深い小説で、戦争直後に赤化したハンガリーの恐怖政治や、そこで息も絶え絶えに貧しく暮らす市井の民の姿が活写されている。アルコール中毒の書店員や夫を共産主義者に処刑されて鬱状態になった女性、父親に犯されて家族に追い出された娘と不具で産まれたその子ども。同性愛者の党員。
当時のアウトサイダーが軒並み登場し、不幸に孤独に貧しく暮らしている。リュカは彼らを魅了することができ、色々な友達ができるが、人間性がどこか欠落しているので誰も救うことはしない。
唯一、不具の障害児を自分の息子として育てるが、現代的なテーマであるがルッキズムが所詮はどの時代にもあったということか。子どもは金髪の美しい姉弟に嫉妬し、自分は所詮不具で醜く父親(リュカ)に愛されないと確信し7歳にして自殺。蝋燭が燃え尽きるみたいに物語も終わってしまう。
我々はつい英雄譚に心惹かれてしまう。
暗くて貧しくて弱い連中より、桜木花道のほうが見ていて楽しい訳だ。大谷翔平のほうが。五体満足に生まれ、裕福な家庭で育ち、人々に愛される英雄が。
主人公リュカも人間性の欠落した人間だ。サイコパスであろう。猟色家であり自己中心的、他者への情けなど持ち合わせない人間だ。利用できる人間は限界まで利用し、利用できない者はあっさり切り捨て、邪魔になれば殺す。それでいて口は達者で情け深い人間であるとの演技はめちゃくちゃ上手で人々は皆騙される。そのようにしてリュカは酷薄な社会で生きてきたのだ。ある意味では逞しく。冷酷に。手段を選ばずに。
そんな主人公が唯一気にかけて最後までそばに置いていた不具の子ども。彼の自殺、そして物語の終幕。明確な答えは示さず、色々な解釈が可能な魅力的な小説だ。
「第三の嘘」では一作目二作目で語られた設定が嘘だらけで、辻褄の合わない描写が多々出てくるとのこと。いわば第一の嘘と第二の嘘であったという。
「第三の嘘」冒頭で、あまりにも現実が悲惨すぎてありのままに書くことは心を傷つけるので、こうであれば良かったのにという理想を書いてしまったと身も蓋もない記載があるので、この小説がそもそも真面目に読んだり謎解きを楽しむ類のものではないことが明らかになる。
その上で物語がどう続くのか、続けられるものなのか気になってしまう。ゆっくり味わいながら残りを読むとしよう。
20240605
コーマック・マッカーシーの「アウターダーク」をようやく読了しました。まー感想とか特にないすけど、二作目にしてマッカーシー節はほぼ完成してますね。グノーシス主義とか散りばめられてて難解極まるのですが、何も知らなくてもとりあえず読めるかと。ある意味では、本当いつも通りなんで。
主人公は相変わらずカスみたいなやつです。またしてもアウトサイダーですね。社会からはみ出すしかないようなやつです。南部ゴシックというそうですがアメリカ南部の貧困の実態をえげつなく描いています。
何の取り柄もないし、魅力もないし、人を惹きつけるものは本当に何も持ってないですね。すっげえ貧乏で、人と話すのもめっちゃ苦手で、挙げ句の果てに自らの妹に手を出して子供を孕ませ、産まれた子供は道に捨ててくるような奴。このような輩ですが社会は野放しです。政府は存在すら感知してないです。もう野良犬と同じ生態です。弱男中の弱男ですね。キングオブ弱男。極限に放置され続けた結果なのでしょう。でも生命力は正常で、その日その日を仕事しながら生きているし、そうやって働いて何とか食べてるんで、人生に見るものがない訳ではない。ちょい応援したくなったりとかもある。
妹も同様に無学だけど純朴で、兄が捨ててきた赤子を探すために一人家を出る。それを追う兄。そしてさらにそれを追う正体不明の三人組。
三位一体の悪で、接触する者全てを血の海に沈めながら追跡してくる。アントン・シガーの原型のような感じ。怖いんだけど、訳がわからない。
何でこんな、何も持たない弱男を、何の魅力もない社会のクズを、殊更に追いかける必要があるんだろうかね? 誰も構わないだろうよ。こんな野郎。相手にもしないし、救いもしないし、ただ放置されるだけだよ。孤独のうちにいつの間にか死んでる。そんな男だこいつは。目と乳の大きなバージンじゃあるまいし。誰も相手にしないし構もしない。嫌いもしないし好かれることもない。男の好色さに救われることもある若い娘とはそこが違う。誰も本当に相手にしない。誰も本当に全く興味がないのだ。だからこそこういう男達は極限の孤独の中で異常な行動に走る訳なんで。
続く「チャイルドオブゴッド」では、もっと貧乏でもっと孤独なホワイトトラッシュが、ずーっと一人で異常な行動に耽る様子が延々と描かれている。マッカーシーもまたアウトサイダーに共感する作家の一人なんですね。
まー、要するに追いかけてくる「三位一体の悪」は、この何も持たない弱男の内面の具現化らしいということが後半わかってくる。妹を犯し赤子を孕ませ、それを無慈悲に捨てて死なせてしまった罪悪感とか、社会に対する怨念とか攻撃性などである。
マッカーシーは登場人物の内面や心情描写(心の声など)をほぼ書かないスタイルなのだが、このような形で内面を表現してきたのは意外だったしそういう手法もあるんだなあと。勉強になりましたね。他作品同様に映画化に向いた作品ではないかと。(何故映画化されなかったのかはわからない)
コーマック・マッカーシーは全米ではめちゃくちゃなビッグネームで、彼の書いた脚本「悪の法則」は即座にリドリー・スコットの手で映画化され、ブラピやマイケル・ファスベンダー、ペネロペ・クルスにキャメロン・ディアスがキャストとしてあっさり決まり、興行だの利益は殆ど度外視で悲劇的かつ哲学的なテーマが残忍極まるストーリーのもと語られた。
物語が全く大衆向きではなく、キャストが豪華すぎたためか本当に利益は殆どでなかった。しかも、製作段階で利益がほとんどでないことはわかっていたはずである(それほどひどいストーリーであるからして)。
最高傑作「ブラッドメリディアン」も映画化されてないので、何か色々事情があるんだろうけどね。
本作アウターダークも79分ぐらいのインディペンデント映画が似合いそうな風情である。でも作られたら観たいな。
20240603
https://note.com/freethinkers/n/nc271afffa7f9
「関心領域」みました。レビュー上げてます↑
今日は一緒にマッドマックスも観ちゃおうかと思ったんですけど、急に気が変わってやめました。そんなに観たいと思ってないみたいだ、、、自分。トム・ハーディーもセロンも出ないというので風船萎んじゃってるんで。。
誰かの絶賛レビューをめっちゃ読みたい気分なのに、無難に面白い、とか今回もいいけど前作が凄すぎた、とか空気入らねえよそれじゃあ。
まあ、どっかで観ようかとは思うが、、、
noteもこの日記も反応ゼロなので、映画レビューどっちに書けば良いのかな?とわからなくなっちゃいました。まあ書く必要がそもそもないんですけどね。。前も大したもんじゃなかったが、いよいよ本当に落ちぶれましたね。自分が望んだことでもあるんだけれども。
何か良い形が見つからないものかねえ、、
20240602
昨日の話の続きになるかもだが、SNSで目立つのはアウトサイダーですね。真人間は目立たない。風俗キャバクラなどの夜職、精神障害者、発達障害者、ニート、生活保護、整形、パパ活、夫憎しの専業主婦…
ちょっと表で言いにくい不利なアレコレをむしろドーンと表に置いて名札代わりにしてる手合いの多いこと。これも匿名で顔隠してやれるからこそであろう。
中でも注目は夜職やパパ活、整形垢だ。人は顔の良し悪しが全てだと心から信じている。そこが共通している。
夜職としてやるなら顔は商売道具なんだろう。パパ活うまくやるのも顔が良くないと売れるもんも売れない訳だ。
整形垢に至っては言うまでもない。顔が全てと思ってなけりゃ整形なんかするわけないからな。こっそりしたとしても隠すのが普通だ。それを殊更にアピールして注目を浴びようとしてる訳で、やっぱり普通ではない。普通の職業ではなく、やはり整形垢と夜職、パパ活は親和性が高く兼ねる者も多い。
つまり、彼女達は顔をドーンと出しても問題が生じにくい。その顔はのっけから偽物であるし、知り合いが見てももはや判別がつかないからだ。メイクや加工アプリがそれを後押しする。なので、その作り物だが美しい顔を堂々と出してるのでファンがつきやすい。侮れないほどの影響力を持つ者も多く出現している。
作り物の顔でインフルエンサーになれてしまう現実がある。
以上は俺の観察が根拠で、まとまったデータとかではない。統計の話はできないので悪しからず。
ブラックジャックはかつて言ったものだ。
人間の顔には個性があり、その個性は美しいものだと。
整形は自らの顔の個性を自らの手で葬る行為に他ならない。
ブラックジャックの時代とは比較にならないほど美容整形は進化したが、皮肉なことにその完璧さが奇妙なおぞましさを増幅させてしまった。
マネキン人形そっくりなのだ。完璧な整形は人工物に近づく。人形や、絵で描いた顔に近くなる。自然の産物ではないと、よほど鈍くない限り見たらすぐに分かる。
問題は、その不気味な完璧さを誇る顔がどのような層に求められるのかってとこだが、これは言うまでもなく先に挙げた売春産業だ。そこは美しい顔であれば良く、倫理的であるかなどは問われないし、客の一時の満足を担保できれば良いのだから。
他には、遊び相手を探しているスケベな男達にも需要があるだろう。男はある時期に沢山の女を抱くことに執着し、それが勲章みたいな役割を果たすので手当たり次第に関係を結ぼうとする。当然美しい顔の女とSEXできればそれが自慢になる訳なんで、整形したような不自然な顔でも美しければターゲットになりやすい。無論、犯罪被害者としても美しい顔は選ばれやすい。変な奴に付き纏われたり、ストーカー被害、レイプ被害にあったりだ。
結婚相手としては選ばれるのだろうか?その美しい顔を目当てに求婚する男は、かなりの高確率で金持ちでエリートで負けず嫌いの女好きであろう。女もまたそのような男を好むので、残念ながらこのようなカップルは幸福にはなれない。エリートの男は相当に高い確率で浮気するからだ。ほぼ100%と言っていいだろう。残念ながら浮気癖は治らないことが多く、妻が耐えかねて離婚を申し出て、シングルマザーになることも多い。シングルマザーは言うまでもなく相当苦労するが、そこでも美しい顔をあてにして悪い男が寄ってくる。良い人も来るかもしれないけど、判断を誤れば苦しみは延々と続く。これは地獄といっていいだろう。
そんな世の暗い現実に想いをはせていると、我が娘の自然な、特に美人になりそうもない平凡な顔を見ていると安心する。まあ、もちろんこれから変わるかもしれないけど、彼女は多分美人ではない。かといってすっごい醜い顔ではなく、親の欲目で言わせてもらえれば大変可愛らしい良い顔である。この顔を捨てて整形するとか言い出したら、実際俺はどうしたらいいかわからないが確実なのは、悲しいだろうなってことである。そして、人目を惹くような美人になってしまったらすごく心配するだろうな、ってこと。
美しい顔は結局悪い奴らに搾取されてる現実があるんで、言うほど得なことではないような気がしますが。特に良いことではないような。。美人は変に注目されるし、同性には嫉妬されるだろう。上で書いたような無用のトラブルにも巻き込まれやすい。権力者だが横暴で好色な男と結婚することが幸せだろうか?
親としては真面目に働いてくれて家族に優しくできる平凡な男に娘を嫁にやりたいと思う。顔目当てにちゃらく寄ってきて、あちこちで遊んでそうなエリートの金持ちとか信用ならない。
勿論選ぶのは娘だから、俺は見てるしかできないんだけど、チョイスを間違える要素は世の中いくらでもある訳なんで、下手に美人だとそのリスクも高いんじゃないかと。つうか頭の良い女の子はその辺り先刻承知ではないかと思う。高学歴な娘ほど顔面工事しない傾向あると思うから。たぶん
整形までして美人に寄せようとしてる女は世の中のその辺の真理がよくわからず、言うなれば自ら悪党に搾取されるために行動してる感じがする。そういうアドバイスも誰もしないのだろうし、アドバイスされても聞く耳持たないのかもしれない。
変に美人になるのは絶対高リスクだと思うんで、娘には自然なありのままの顔を大事にしてもらいたいですね。特に今の時代はね。
20240601
手塚治虫の漫画読んでると、あまりにも悲観的なストーリーなんで唖然とさせられますね。つうかワタシがその手の話が大好物なのでそういうのばかり集めてまとめて読んでるからだと思いますが。
最近では「空気の底」「ボンバ!」「火の山」を読みました。全部短編集ですが、中でも黒くてホラー要素の強い、くらーーーーーい話ばかり集めてるどうにもならない感じの作品集です。暗すぎる。どこに需要があんだほんと。
有名作品の「火の鳥」や「ブラックジャック」も、大河ドラマではなくて短編作品の連作のような趣なんですよね。主人公は狂言回しに過ぎず、色々な登場人物の一瞬の輝きを納めたようなお話が多いです。短編の構成なんですよね。希望を感じさせる話もあるけど、絶句するような悲惨な話が定期的に織り交ぜられています。
悲観的なストーリーで大河ものとなると「奇子」や「ムウ」、「きりひと讃歌」が該当しますけど、手塚治虫としてはけっこう異色作ではないかと。
手塚治虫の幼少期の戦争体験や社会批判的な視点に加え、哲学、倫理、生命や存在の意味を問うような洞察的な視点が常にあります。相当に教養の深い人物だったことは間違いありません。
特に善悪の捉え方が異色です。手塚治虫の漫画には悪人が沢山出てくる。それも唾棄すべし異常者や犯罪者、アウトロー、人間のクズみたいな連中が雁首揃えて次から次へと登場する。大悪党もいれば、けちな子悪党も出てくるし、頭が弱いから犯罪を犯してしまったような悪と規定するにも力不足というような、弱い人間がいっぱい出てくるんですよね。
多分俺自信もアウトサイダーだから。社会からはみ出して変な生き方してるのはよく自覚してるんですけれど、このクズどもの展覧会に心底安心したりとかも多分にあるね。
人間の善悪の複雑さに関しては、戦争映画でも頻繁に現れるトピックスだろう。何の問題もない常識人が戦場では最も卑劣に行動したりもするし、極道やらヤクザもんが勇敢で義侠心を持って行動したりもある。誰よりも優しい真人間だった人が、戦友の肉を食って生き残ったり。同調圧力に負けて捕虜を殺したり、女を犯したり、子供を殺したり。
悪党にも悪党なりの人生があって、罪を犯した人間にも無論人間性はある。鬼ではなく、結局のところ人間だから。良くも悪くも。悪いことすれば実は苦悩してるし、悪いこと重ねてきた人生だったからこそ贖罪もしたくなる。
そのような人間の弱さ、悪人だけど土壇場で人間らしくあろうという細やかな試み。そしてそれらを粉砕する病んだ社会、狂った大衆心理、圧倒的かつ無慈悲な現実…を手塚治虫は繰り返し繰り返し描いている。偏執的なほどだ。その怨念の根深さは俺如きでは理解できないほど強烈かつパワフルだ。
その力強さ、執念がどこから産まれたのか本当に興味深い。いわゆる、ピカレスクすれすれみたいな作品が多く、手塚治虫自身もアウトサイダーでそのような自覚があったのかも。それでいて彼自身が社会的な成功をおさめた後も、彼らクズども、落ちこぼれ達に同情し、共感し、救いを与えたい気持ちがあったのだと思う。しかし、結局ハッピーエンドにはならない。そのようなこの世の残酷さ、救いのなさを沢山描いてカタルシスを得ていたのかも。そしてこのような残酷な真実を世の中に訴えたかったのかも。
いまだに手塚治虫の作品群は読みきれないし、何作品あるのかもわからない。あまりに作品数が膨大すぎて読みきれない。こんな作家が他にいるのかな? 全部読めたらもうちょい深く手塚治虫を語れるのかもしれないけど、今はこれが限界だな。