《第三帝国》ナチスと麻薬《ドラッグ》

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第Ⅸ軍団の軍医は興奮を隠しきれずに次のように報告している。

私はその効果を確信した。兵士が持てる力をすべて出しきらねばならぬような難局で、ペルビチンを支給された部隊は支給されなかった部隊を遥かに上回る戦果を挙げたのだ。

この軍医はペルビチンが軍の医療備品の中に常備されていたことも付記している。

別の軍医は次のように書いている。

とりわけオートバイ部隊には、猛暑ともうもうたる土埃、劣悪な路面によって極度の負担がのしかかった。しかも先へ先へと延伸される行軍は、早朝から夜遅くまで続き、シュレージエン地方からボヘミア、スロヴァキアを経て、ポーランドのレンベルク近郊(ガリツィア地方の都市)にまで及んだ。例の錠剤は服用の目的を告げずに配給された。しかしそのあらかたな効験を通じて、まもなく何の薬であるかは隊員たちの間で知れ渡った。

ドイツ国防軍は薬物に自らの命運を賭けた世界最初の軍隊となった。

1940年5月10日、西方電撃戦の前夜、侵攻部隊は一斉にペルビチンを服用した。
テムラー社の製造部門では1日に83万3000錠のペルビチンが生産可能となっていた。ドイツ国防軍はこの日のために計3500万回もの服用量の薬剤を注文していた。

効果は20分で現れた。脳の神経細胞が盛んに神経伝達物質を放出し、ドーパミンとノルアドレナリンが一挙に感覚知覚を研ぎ澄ませ、生体は完全な臨戦体制となった。

3日後、部隊長は自分達がフランス国境に到達したことを報告した。多くの者は行軍が始まってから一睡もしていなかった。そしてなおも急がねばならない。

我々はある種の高揚感に満たされ、尋常ならざる状態に陥った。

参戦した者はそう報告した。「埃まみれになり、疲弊しきって車輌に座っていたが、それでいて誰もが躁状態だった

ドイツ軍はマース河を渡河し、フランス国境の町を占領した。フランス軍はドイツ軍の不眠不休の攻撃に部隊を集結させることができず、ついに降伏に至る。

ペーター・シュタインカンプ博士(医学史家)はのちにこう述べた。
電撃戦については、メタンフェタミンによってもたらされたとまでは言えないが、明らかにメタンフェタミンによって支えられたのである

独ソ戦と麻薬

41年の6月、帝国保健省はペルビチンを帝国阿片法による危険薬物に指定した。各地で薬物の興奮から覚めた後、何が起こるのかが報告されていたからだ。しかし使用量は一向に減らず取り締まりはうわべだけのものとなった。いまやドイツ国内でのペルビチンの民間消費量は月に150万ユニットを超えていた。

国民は長く続く戦争の大きな負担に押し潰されそうになっていた。麻薬だけが直接この苦痛を取り除いてくれたのである。

軍においても同様で、ソ連邦を急襲する6週間前、ドイツ国防運と帝国軍需省はペルビチンを「軍事的に極めて重要」と公式に発表した。

実際、広すぎるロシアで長く続く戦争を勝ち抜くのに麻薬は大した助けにはならなかった。

スターリングラードで戦ったある衛生将校は戦後こう証言した。
当たり前のように配布されていました。私自身はペルビチンをのまなかった。正確に言うと一度だけ試したことはある。自分が兵士に渡す物がどんなものなのか、知るためだった。……一度でわかったよ。あれは効く。容赦ないぐらいに眠気を吹き飛ばす。でも何度も試したいとは思わなかった。依存性があり、副作用を伴うことを私たちは知っていたから。精神疾患、神経過敏、虚脱感だ。それにロシアは完全な消耗戦、陣地戦だった。そこではペルビチンは何の役にも立たなかった。余計に消耗させるだけだ。薬で休みなしに活動したツケはいつか払わねばならなかったから。いくら眠気を抑えても、そこに戦略上のメリットなんてなかったんだよ。

電撃戦が長期戦に向かないといわれる所以は、薬物による陶酔と無関係ではなかったのだ。

41年の末になると、総統大本営でも、もはや勝利は望めまいと考える者が出始めた。ヒトラーは既に自分自身も主治医モレルによって静注される薬物の依存症になっていた。正気を失っていた可能性が高い。モスクワ攻略に失敗したにも関わらず、休養をたっぷり取り眠れる獅子と恐れられていた超大国アメリカに宣戦を布告したのだ。

ホロコーストと薬物

長く続く戦争のストレスによってヒトラーの心身はボロボロだった。狭苦しいブンカーでの隠遁生活は精神を苛んだ。一日中続く作戦会議と、誰も信用せず何にでも口を出す性格が不眠不休の活動を強いた。どんなに疲れていても、即座に元気になる必要があった。いつでも精力的で、疲れ知らずで、強力な指導者を演じる必要があった。これを一挙に解決したのは薬物以外なかった。

主治医のモレルは、大量のビタミン剤に加え、ペルビチン、オイコダール※、コカインを定期的に総統に静脈注射した。ヒトラーは重度のジャンキーとなり、モレルは求められるがままに麻薬を注射した。それどころか、ゲッベルスなどの重臣たちにまでいとも容易く麻薬を注射したのだ。末期の大本営は薬物依存性患者で溢れていた。

※阿片に含まれる物質から合成されたオキシコドンを成分とする鎮痛・鎮咳薬。メルク社から1917年に発売され、1920年代に人気となった薬である。「薬物の女王」と呼ばれた。

これら薬物による陶酔が、ホロコーストの決定と実行にどの程度影響したかは議論がある。ヒトラーのユダヤ人絶滅思想は、「我が闘争」にて既に明らかにされているし、薬物が大量虐殺の犯罪性を免罪するとは言えないであろう。ただし、薬物がヒトラーの思想を確固としたものとして先鋭化させた可能性は指摘されている。薬物は罪悪感を薄れさせ、自分の信念に自信を持たせ、殺戮による精神的疲労を減じさせてくれたからだ。

上記のように、ヒトラーの意思決定にドラッグがどの程度関わったかは大変ナーバスな問題である。対して、現場の将兵はどうだっただろうか。ユダヤ人の大量虐殺に携わったナチス親衛隊(SS)や警察大隊(オルポ)の面々は。彼らに協力したドイツ国防軍の後方保安隊や軍属、野戦憲兵、占領地でリクルートされた大量の傭兵達は。

薬物とは異なるが、アルコールが大量虐殺に大きな役割を果たしたことは知られている。ホロコーストは当初、ガスによる殺戮よりも、銃や人工的に飢餓に追い込むという手法が主な殺し方だった。特に銃殺は兵士達の精神的な負担が大きかった。そこで大量に使用されたのが酒である。酒は罪悪感を忘れさせ、道徳心を麻痺させ、普段ならできないようなことを平気で行わせてしまう。我々はそれをよく知っている。

ドイツ警察やナチス親衛隊がオスト(東部)の占領地で大量にユダヤ人やゲリラを銃殺にした際、必ず大量に振る舞われたのがシュナップスという強い蒸留酒だった。処刑人は警察大隊所属の一般警察官や、ラトヴィア人やウクライナ人の傭兵、党から派遣された保安部(SD)の特務将校達であったが、彼らはいずれも銃殺の際には大量のアルコールを服用した。アルコールを飲まずに処刑人を続けた者は神経を病み、どこかで落伍した。べろんべろんに酔っ払い、足元がふらふらになる程呑んだくれた者ほど、優れた殺しのスペシャリストとなった。

南ポーランドのルブリン管区で≪ラインハルト作戦≫※の実行部隊となった第101警察予備大隊の記録が最も有名である。500人の隊員に対し、総犠牲者数は8万人以上にのぼった。任務の前後に気前よく酒が振る舞われ、酒を飲むほどに警官達は獰猛でサディスティックとなった。任務期間中、日常的に酒を飲み続けた結果、アルコール中毒を罹患した者も数多くいた。

※ナチはポーランドのユダヤ人を皆殺しにする計画を立て、実行に移した。44年にはルブリン管区は≪ユダヤ人のいない世界(ユーデンフライ)≫を達成した。

101警察予備大隊の殺戮の記録は下記の書に多く収められているが、ここではその一例を紹介するにとどめよう。処刑に酒が不可欠だったことを物語る好例といえる。

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