【ヒトラーを支えた共犯者たち】ナチスの最も極悪な10人

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ダッハウやザクセンハウゼンには、強制収容所部隊の司令部が置かれていただけでなく、強制収容所官吏の兵士たちに情け容赦ない強者の哲学を教え込む研修地としての側面があった。髑髏部隊の兵士たちは、ナチ党に反抗する「内部の敵」と戦う態度を求められ、敵に対する寛容さは弱さの印であるという信念を徹底的に叩き込まれていたのである。囚人に対する数々の拷問メニューも、ダッハウなど初期の強制収容所にて開発され、模倣されて行った。このような異常な教育を受けた兵士たちが、のちに武装SSとして前線に立った時、捕虜や民間人、ゲリラに対して情け容赦ない残虐行為に及ぶのは無理からぬことであった。

《髑髏》は武装SSに加入して強力に軍隊化され、西方電撃戦や独ソ戦でも第一線の矢面に立たされた。司令官は誰あろうアイケが就任したが、彼とその部下は西部ソ連地域で包囲下に晒されながらも異常に狂信的に戦い、部隊のほとんどが全滅するまで戦い続けた。アイケ自身も43年の2月に敵情視察中に乗機を撃墜されて戦死。

アイケは自らが挫折に満ちた人生であったため、髑髏部隊の隊員には、前科者やごろつき、無学な者であろうと広く採用した。そんな彼らはアイケに恩義を感じ、アイケのことを「親父」と呼んだ。彼らはアイケの命令以外は意に介さなかったという。髑髏部隊は、そのような実に奇妙な部隊であった。アイケ戦死の際には、その死体の回収のための特別部隊が編成され、部下たちは数々の苦難をはねのけ、アイケの亡骸を回収し、師団本部へと送って埋葬した。


オディロ・グロボクニク
Odilo Globocnik

《ラインハルト作戦》の責任者

OdiloGlobocnik

独ソ戦が開始されて以降、ポーランドなど、ナチの東部占領地域において、ゲットーが急遽作られ、ユダヤ人たちはその中に押し込められていた。しかし1942年以降、これらのゲットーは順次解体され、着々と建設が進められていた絶滅収容所へと大量に移送されて行くことになる。これはのちに《ラインハルト作戦》と呼ばれた。

グロボクニクは、元はオーストリアのウィーン大管区長の地位にあったが、汚職によって罷免され、ヒムラーによって引き立てられて《ルブリン管区親衛隊及び警察指導者》となる。名誉回復の場を求めたグロボクニクは、ホロコーストの最も汚く、かつ重要な仕事を熱心に遂行した。絶滅収容所の設置と、ガス室による殺害方法をヒムラーに提案したとされている。

グロボクニクによって、総督府全体のゲットーがすべて解体され、そこで生活していたユダヤ人たちは皆絶滅収容所へと送られ命を落とした。ラインハルト作戦の犠牲者は300万人に及んだ。

しかし、戦況が傾くと、各絶滅収容所で叛乱の火の手が上がった。ヒムラーは各絶滅収容所の閉鎖と証拠隠滅を指示し、ラインハルト作戦は終了となる。以降はアウシュビッツが殺戮の主舞台となる。

グロボクニクは自らの罪の重さを知っていたのか、1945年5月に英兵の捕虜になると、即座に青酸カプセルを噛み砕いて自殺した。


ハインリヒ・ヒムラー
Heinrich Himmler

《総統》の狂気を代行する者

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ナチスドイツ最悪の暴力機関「親衛隊」の最高指導者である。田舎の校長先生のような風貌の通り、性格も真面目な公務員タイプだったそうで、彼の人柄からそのとてつもない犯罪を想像することは難しい。だがSSの歴史は彼の人生であり、SSの犯罪は彼の犯罪である。

ハイドリヒを見出し、アイケを引き立て、グロボクニクを送り込み、医師たちに人体実験を許可し、障害者抹殺計画《T4》やジプシー絶滅計画《ポライモス》を命令し、同性愛者を弾圧し、占領各地で金髪碧眼の子供たちをドイツ本国へと拉致して親衛隊家族に育てさせ、常にヒトラーの影で主の狂気を代理執行した。終戦間際には裏切り者や臆病者を処刑するために部下をフル活用し、第三帝国の最期の瞬間まで恐怖政治を主催した。

ヒトラーはがなり立てただけだが、それを狂的な真面目さで実行したのは、全てヒムラーだった。彼は主の妄想に疑いをさしはさむことなく、人々を血の海に沈め続けたにもかかわらず、終戦間際には裏切り騒動を起こして自分だけ助かろうとしたが、彼の犯罪はあまりに途方もなかった。戦後すぐに捕虜になったが青酸カリを噛んで自殺。裁かれることもなくあっさりと死亡した。


ナチズムによって命を失った、2500万人以上の人々の冥福をお祈りします。