《第三帝国》ナチスと麻薬《ドラッグ》

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101警察予備大隊の殺戮の記録は下記の書に多く収められているが、ここではその一例を紹介するにとどめよう。処刑に酒が不可欠だったことを物語る好例といえる。

ルブリン管区北東部に位置するウォマジー村は、付近の村々からユダヤ人がかき集められていた。ウォマジーは鉄道駅から遠く、移送するのも一苦労であった。そのため銃殺されることになったのである。これらかき集め作業は第101警察予備大隊第2中隊の仕事であった。中隊長ハルトヴィッヒ・グナーデ少尉もまた過酷な処刑任務の連続でアルコール中毒になっていた。アルコールは彼の粗暴な一面を大いに引き出した。

1942年8月17日早朝、ウォマジーのユダヤ人地区は解体され、ユダヤ人たちは校庭に集められることになった。集合地点まで移動できない病人・老人・幼児・虚弱者はその場で射殺されねばならなかった。1700人のユダヤ人は2時間ほどで集合し、60~70人の若い一団のユダヤ人が選別され、シャベルを持たされトラックに乗せられ森に連れて行かれた。森の中でユダヤ人たちは巨大な墓穴を掘るために作業させられた。他のユダヤ人はその場で何時間も待たされた。

その間にSS将校に率いられた外国人協力者が村に到着した。彼らの多くはウクライナ人であったらしい。彼らはすぐに飯を食い酒を飲み始めた。グナーデ少尉と保安部将校も同じく急ピッチで酒を飲み始めた。

墓穴を掘る作業が終わりに近づくと、校庭で待たされていたユダヤ人たちも1kmほどある森へ、死の行進が始まった。行進はノロノロしており、動かないもの、途中で倒れたものは容赦なく射殺された。

ユダヤ人の隊列が森に到着すると、彼らは性別に分けられ、三つの集合地のいずれかに送られた。そこで彼らは服を脱ぐように命じられた。衣服や貴重品はその場で奪われた。

グナーデ少尉はその日もどうしようもないぐらい酔っていた。射殺が始まる直前、グナーデはユダヤ人の中からあごひげの豊かな指導者風の年長のユダヤ人を選び出し、墓穴のふちにうつ伏せで寝かせて棒で打ち始めた。・・

射殺の準備が完了すると、ユダヤ人たちは小グループに分けられ、墓穴に向かって走らされた。墓穴は三方を土塁で囲まれ、入口はユダヤ人を追い込むためスロープがつけられていた。対独協力者たちは酔って興奮していたので入り口付近で射殺し始めた。その結果最初に殺されたユダヤ人が積み重なってスロープをさえぎってしまった。そこで幾人かのユダヤ人が墓穴の中に入り、入口の死体を取り除いた。ただちに多数のユダヤ人が墓穴に追い込まれ、対独協力者たちは急造された土塁の上に立ちそこから犠牲者を撃ったのである。

射撃が続けられるにつれ、墓穴は死体でいっぱいになった。後から来るユダヤ人たちは射殺された死体を乗り越えねばならなかった。死体は墓穴を満たしほとんど穴の淵にまで達していた。

グナーデも対独協力者たちもますます酔っ払っていった。グナーデは土塁の上から拳銃で撃っていたが、酔って終始墓穴の中に落ちそうになっていたという。保安部将校は穴の中に入ってそこで射殺していた。彼もまた酔っており土塁の上に立っていることはできなかったからだ。銃殺班が泥酔状態になっていくと落伍者が増えてきた。するとグナーデと保安部将校は周囲のもの全員に聞こえるぐらいの大声でお互いを罵り始めた。

「おまえのクソ警官どもはまったく撃たねえじゃねえか!!」

「いいとも、それならおれの部下も撃ってやろうじゃねえか!」

グナーデによって第2中隊の警官たちにも射殺命令がくだされた。

墓穴の中には地下水が溢れ出し血と混ざって悲惨な光景が繰り広げられていた。折り重なった死体の随所から死にきれないユダヤ人たちの苦痛の呻き声が聞こえていた。

銃殺班は墓穴の対岸から処刑を続行することに決めた。ユダヤ人たちは墓穴のそれぞれの側面に沿って横になるように命じられ、処刑されていった。8~10人の銃殺班は5~6回射撃するとローテーションで次の部隊と交替した。2時間もすると泥酔状態の対独協力者たちが目覚め、ドイツ人警官と交代して射撃を再開した。銃殺は夜7時頃終了し、脇に待機させられていた作業用のユダヤ人が死体で溢れた墓穴に覆いをかけた。その後彼らも射殺された。

また、ホロコーストに関与した重要な部隊であるナチ特殊部隊「ゾンダーコマンド4a」も紹介したい。同部隊はキエフ郊外のバビ・ヤール渓谷にてたった2日で3万人以上の非武装のユダヤ人を銃殺したが、処刑中、兵士たちは好きなだけ酒を飲めたという。その指揮官パウル・ブローベルSS大佐も重度のアルコール中毒で、この虐殺のあとに治療のため一旦は任務を外れ、再び「タイルコマンド1005」という特殊部隊を率いた。(この部隊は各地で銃殺されたユダヤ人の腐った屍を掘り出して特殊な網で焼却し、ホロコーストの証拠を隠滅することが任務であった)

上記のように処刑とアルコールの親和性は疑いようがない。ホロコーストの中でどの程度心理的疲労を打ち消すために覚醒剤が使用されたのかは定かではないが、民間人でさえ日常的に使用し、軍の常備品とまでなっていたペルビチンが使用されなかったとは考えにくい。この分野は後続研究が待たれる。

クスリを抱いて沈め〜大戦末期と麻薬〜

1944年後半ともなると、ヒトラーのソルジャー達はほとんど何一つ戦果をあげられなかった。パリは8月末に連合軍に奪還され、ドイツ国防軍はギリシャから撤退せざるを得なくなった。9月にはついに米軍が帝国領内へ侵攻した。東部ではソ連軍が中央軍集団を壊滅させ、ウクライナ、ベラルーシ、ポーランドを次々と奪い返し、オーデル川へ到達しようとしていた。

すべての前線で、血を流し、疲弊し、打ちひしがれたドイツ軍部隊が虚しい戦いに明け暮れていた。敗戦は確定したがいつまでも戦争は続いた。今となってはペルビチンも決死の抵抗と敵前逃亡のどちらかの役にしか立たなかった。ある装甲部隊司令官が簡潔に報告している。

我々はロシアから一刻も早く脱出するために、休まず延々と車を走らせた。100キロメートル走破するたびにペルビチンを呑み込み、給油のために停止しただけだった。

ナチス指導部はますます空疎に響く「最終勝利」以外、兵士たちのモチベーションを高める新しいスローガンを思いつかなかった。そこで国防軍は新薬の開発を決断した。その薬は疲れ果て、死を宣告された者をも奮い立たせ、形成を一挙に逆転して戦場の勝者とならしめるものでなくてはならなかった。ドイツはこの頃戦局を逆転させる夢の兵器を待望しその開発に虚しい努力を費やしていたが、同じように奇跡を起こす夢の薬物をも希求していたのだ。

1944年のドイツ海軍に組織的な抵抗と呼べるものは無かった。艦隊は戦う機会もなく既に消滅していた。制空権を失い、暗号を解読され、Uボート戦は停止に追い込まれた。アメリカは悠々と大量の物資と兵員をイギリス本土へと移送し、史上最大の作戦を着々と準備していた。

そのような時局、圧倒的戦力で迫る連合軍を阻止するよう命じられた男達がいた。ヘルムート・ハイエ海軍少将(当時)が率いる《小規模戦闘部隊K(Kleinkampfverbände der Kriegsmarine)》(以下K部隊)である。

K部隊はいわゆる人間魚雷による戦闘部隊であった。

かつてイタリア海軍の特殊潜水部隊「デチマ・マス」はヒトラーを驚愕させ、また狂喜させたものだった。たった数人のフロッグメンが特殊潜水艇を使用してイギリス戦艦の船底に爆雷を仕掛け、大破させたのである。イタリア降伏後は「デチマ・マス」に所属していた隊員達を、連合軍と枢軸がこぞってリクルートしたと言われる。

ドイツ海軍にも「KAMPFSCHWIMER」と呼ばれる特殊潜水部隊が急ごしらえで編成された。「デチマ・マス」の隊員によって訓練を受け、「デチマ・マス」と同じ装備を受領して作戦行動についた。だが彼らはほとんど戦果を挙げることもなく、ほとんどの兵員が死亡、または行方不明となった。

若者の命をゴミ同然に海の藻屑へ変えたのは、権力者の老人達であった。

ヒトラーは1944年の軍備会議で、新型の2人乗り潜水艇、小型Uボート、爆弾搭載の突撃ボート、1人乗りトルベート(魚雷搭載潜水艇)を使って敵の圧倒的な優位を覆すよう命じたのだ。

計画では敵の巨大船舶に密かに近づき、魚雷の発射準備を整え、いざ攻撃という流れである。そのためにはある程度の日数、昼夜を問わず眠らずに水中にとどまる必要があるのだが、これは覚醒剤ペルビチンでは力不足であった。そこで既存のすべての薬を凌駕する新薬が求められたのだ。

10種類の混合薬物が開発された。コカインやオイコダール、ペルビチン、モルヒネ誘導体ヒドロコドンを素朴にカクテルしただけの薬物である。即座に実験が開始されたが服用した兵士達には重篤な副作用が出現し、3分の2が生還しなかった。時は切迫していた。新たな薬物を手にするため、海軍が協力者として選んだのはナチス親衛隊だった。親衛隊は強制収容所で無限に実験体を保有していたからだ。

シューロイファー特務部隊

ベルリンの北方35キロメートル、小都市オラニエンブルクの周縁部に設置されたKZ(強制収容所)ザクセンハウゼンは、ナチスドイツが作った最も初期の強制収容所である。ナチス親衛隊の強制収容所監視部隊の司令部が置かれ、隊員達の教育・研修の場でもあった。約40カ国から20万人以上の人々がここに収監された。その内訳は政敵、ユダヤ人、ロマ・シンティ、LGBT、エホバの証人、ヨーロッパの被占領国の市民、反社会的人物、アルコール依存者、薬物依存者、共産主義者達であった。何万もの人々がここで飢餓、強制労働、虐待、医学実験によって命を落とした。ソ連兵捕虜も大量に連れてこられ、殺人プロセスを標準化するための頸部射殺用施設で銃殺された。

「シューロイファー特務部隊」は、ドイツの製靴業者のために休憩のない強制行進によって靴底の減り具合をテストさせられていた。ザラマンダー社、バータ社、ライザー社といった企業が最新モデルの靴をこのKZに送った。全長700メートルの歩行路で、58パーセントがコンクリート道路、10パーセントが噴石を敷いた道路、12パーセントが固めていない砂利道、8パーセントが汚泥で、これは常にぬかるんでいた。さらに細かな砂利道と石畳が各4パーセントとなっていた。つまりドイツの兵士たちが踏破し、征服したすべての道路の平均値がここに再現されていたのだ。

シューロイファー特務部隊は懲罰部隊であった。労働忌避者、賭博や不正に関わった者、食糧品を盗んだ者、怠慢、命令への不服従、あるいは同性愛行為の疑いがあるだけでもここに入れられた。

東プロイセンのゼンスブルク出身の博士号を持つ靴職人マイスターのエルンスト・ブレンシャイトがその責任者だった。彼はその残虐さで有名であった。毎日40キロメートルを歩かせ、靴底により強い負荷をかけるために重い荷物を背負わせたのである。おまけに追加の所見を得るためと称して、しばしば収容者に小さすぎる靴をあてがったり、わざと左右のサイズの違う靴を履かせたりした。