【差別の歴史】優生学とは何か?【生命の選別】

シェアする

我々は、障害者、精神病者、犯罪者、社会不適合者、貧困層、人種的マイノリティー、を排除し、「望ましい生命」を活かし生かし、増やそうとし、「価値なき生命」を拒絶し断種し追放しようとしてきた。

これは現在でも同様である。出生前診断、犯罪者への断種措置、精神病者への隔離措置、人種差別、私生児・障害児の中絶、安楽死の容認……

優生学はかつて、人類を品種改良し、理想社会を築くための夢の学問と考えられた。

しかし、優生学は途方もない暴力と絶滅を是認するものだった。我々はいまなお存在する「生命の選別装置」と、どう向き合えば良いのだろうか?

優生学の起源・社会ダーウィニズム

優生学(eugenics)という言葉が最初に使われたのは1883年である。

キリスト教世界では、人間や動物の存在は、創造主(神)が存在する有力な物証だと思われていたが、1859年にダーウィン「種の起源」が発表されてから、キリスト教的価値観は大打撃を受ける。

1880年以降は、そこにぽっかりと空いた価値観の空隙を埋める作業が行われ、唯物論や自然主義、一元論などが発達して行く。

ダーウィンの考えは、あくまで動物の進化論に向けられたものであったが、これを人間やその社会にまで応用しようという動きが活発化する。これを社会ダーウィニズムという。

社会ダーウィニズムは、宗教的迷妄に飽き飽きした人々の心をつかみ、合理的で新しい、根拠に基づいた生活規範を築いてくれるものと期待された。

漠然と人々の心に、人間の心身の特徴はほぼ遺伝によって生物学的に決まるのであり、環境や教育の成果はほとんどない、という考えが浸透して行き、それを前提に様々な学派が産まれた。

その結果たどり着いたのが、人体測定学である。当時の欧米列強はアジアやアフリカにたくさんの植民地を持っており、原住民の毛髪や肌の色、頭蓋骨を集めて頭蓋容量(脳の大きさ)を調べたりして、人間の優劣を科学的に証明しようという動きが活発化する。

ダーウィン以降になると、顔面角の立ち上がりが進化の基準と見なされるようになり、それぞれの人種の知能発達を示す科学的根拠と見なされた。この考え方はナチスに採用され、第二次大戦終了時まで、ナチスだけでなく世界で常識として受け入れられていた。アジア人やアフリカ人を劣った人種と見るのは、白人社会ではごく当然のことであり、激しい人種差別の時代であった。

顔面角

普通は,前頭鼻骨縫合中央点と上顎歯槽前下縁中央点とを結んだ直線が,眼窩下縁と外耳孔上縁を結ぶ耳眼水平面となす角のことで,全側面角ともいう。口吻部の突出度合を表わす。 70.0度未満を過突顎 (ゴリラ 55度) ,70.0~79.9度を突顎 (オーストラリア先住民 76.8度,黒人 78.3度) ,80.0~84.9度を中顎 (中国人 83.0度) ,85.0~92.9度を正顎 (日本人 85.1度,南ドイツ人 88.0度) ,93.0度以上を過正顎と分類される。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イギリスの場合

19世紀後半、イギリスでは精神障害というものが大きな問題としてスポットを浴びるようになった。初等科教育が義務化されるに伴い、超極貧層の子供たちが学校に来るようになったが、彼らの多くは精神や神経の病を抱えており、勉強について来れなかったのである。その数は実に全児童の5分の1にも及んだ。

この時代、精神障害は遺伝によるものだと漠然と信じられていて、精神障害の区分や定義について大規模な調査が行われた。特に注目を浴びたのが精神障害の女性の性生活についてであり、彼女たちは一般女性よりも多産であると信じられていた。

こうして1913年に精神病法がイギリスで成立した。これらの法は隔離政策であり、精神障害者および重度の知的障害者は、大規模施設やコロニーといった地域社会から離れた施設に収容されることになった。

しかし、イギリスでは、優生学が植民地政策に組み込まれることはほとんどなかった。

アメリカの場合

断種

優生学には、良い遺伝子を増やそうという積極的優生学と、劣った遺伝子を減らそうという消極的優生学がある。しかし、実際に行われたのはもっぱら消極的優生学であった。その代表が断種である。男性では輸精管、女性では輸卵管を縛ったり除去する方法がとられた。

アメリカでは1897年のシカゴの聖マリー病院の断種手術が最初であった。1902年、インディアナ州の少年院で、犯罪者に対して断種手術が行われたが、これは犯罪者や精神障害者が増えている、という報告を引き合いに出して行われたものだった。